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名護屋城 2019.10.23 [佐賀県]

名護屋城は、豊臣秀吉が文禄・慶長の役に際し出兵基地として1591~1592年に築いた城で、周辺には全国の諸大名の陣屋が130以上建てられ人口20万人を超える城下町が出現したとされる。1598年秀吉が没し朝鮮からの撤退後しばらくして廃城となったもようで、解体材の一部は唐津城普請に転用され、一国一城令(1615年)を受けて(特に島原の乱後)、石垣も崩された。現在は、23箇所の陣屋跡を含め国の特別史跡に指定され、発掘調査・環境整備が行われており、隣接して佐賀県立名護屋城博物館(1993年開館)がある。

名護屋城を訪れたのは2019年10月23日(水)のこと。宿泊地の唐津市内から、昭和バスの唐津バスセンター:大手口7時55分発→名護屋城博物館入口8時30分着(バス停からは丘の上にある博物館は見えない)。階段を上って丘に登ると名護屋城東出丸が見えてくる。大手口前の観光案内所と隣の博物館は9時開始なので、先に城内を訪ねる。

①三ノ丸南の大手口。大手道が東出丸へ続く。

名護屋城005大手口.jpg

②東出丸の虎口(入口)。ここを左折すると三ノ丸に入る。画面右手の櫓台石垣の隅部は崩されている。

名護屋城006東出丸虎口.jpg

③三ノ丸を横切って南西へ進むと馬場に出る。馬場側から三ノ丸南西櫓台石垣を撮影。巨石が使われている。

名護屋城066三の丸から馬場へ.jpg

④本丸大手門跡。三ノ丸に戻り本丸東側入口の大手門跡へ向かう。左折する枡形虎口である。大手門建物は伊達政宗が仙台城大手門(戦災で焼失)として移築したと伝わる。

名護屋城016本丸大手門.jpg

⑤本丸に入り、本丸南側・西側を通り(本丸拡幅に伴う旧石垣の表示、多聞櫓跡の表示などがある)、天守台跡へ。西側の多聞櫓跡から北西隅の天守台跡を撮影。石垣はほとんど剥ぎ落とされている。

名護屋城024天守台南.jpg

⑥山里口。本丸北門跡から出て水手口の坂道を下り、県道を東へしばらく歩くと山里口へ。山里口は、上山里丸(秀吉の御殿・茶室・月見櫓等のくつろぎの空間:現、広沢寺)の入口である。近年、私有地を買い取り、発掘調査し修復したもので、左折、右折・左折・右折して階段を上って行く複合枡形虎口となっている。ここでは石垣隅部が崩されておらず観察できる(算木積みは未完成のようだ)。

名護屋城038山里口.jpg

⑦県道を元に戻り、船手口から二ノ丸へ。二ノ丸西側内部の石塁とその上り階段(合坂)を撮影。

名護屋城047二の丸.jpg

⑧二ノ丸から本丸下の遊撃丸へ入り、遊撃丸から本丸天守台を撮影。

名護屋城048遊撃丸より天守台 (2).jpg

⑨二ノ丸から弾正丸へ進み、搦手口へ。弾正丸側から搦手口を撮影、典型的な枡形虎口である。石垣の隅部はきれいに崩されている。

名護屋城058弾正丸搦手口.jpg

⑩搦手口を出て、東方向へ進み、馬場の南側石垣を撮影。石垣がV字型に崩されている。

名護屋城059馬場南面.jpg

大手口に戻り、開いている観光案内所で協力金100円を払いガイドマップをもらう。このあと、博物館(入館料無料)に行く。常設展は「日本列島と朝鮮半島との交流史」、企画展示は「名護屋城と配陣図」、1階ロビーで名護屋城復元映像を上映している。なお、過去の企画展「肥前名護屋城図屏風」のパンフレットで二種類の屏風があることを初めて知った(下絵ぽいものは知っていたが、彩色されたものは知らなかった)。構図はほぼ同じだが、細部の相違点はかなりあり興味深い。

名護屋城滞在は約3時間。城内は雑草がほとんどなく(石垣の雑草も少ない)、ゴルフ場並に芝生が管理されているのはすごい。11時38分発の昭和バスで帰ろうとしたところ、乗り損なってタクシーで呼子へ。呼子発12時3分の昭和バスで唐津バスセンター:大手口へ向かう。次の目的地は唐津城。


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