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掛川城 2020.2.11 [静岡県]

2020年2月11日(火)、二俣城から天竜浜名湖鉄道で向かったのは掛川城。掛川駅15時38分到着後、まず、大手門へ。掛川城は、16世紀前半、今川氏家臣の朝比奈氏によって築かれ、1569年からの徳川氏家臣の石川氏を経て1590年~1600年は豊臣系大名の山内一豊が城主となり石垣構築・天守を中心に瓦葺き建物造営など近世城郭化をはかり、1600年以降は徳川譜代大名が城主となり、明治維新で廃城となった。

①大手門とその奥に番所(駅から徒歩15分程)。大手門は1854年安政東海地震により倒壊、再建されたが廃城後に城外へ移築後焼失。現在の大手門は、発掘調査等に基づき1995年に遺構の約50m北に木造でよみがえった(江戸時代初期の正保城絵図などを参考にしているようだ)。番所は地震で倒壊後に再建され、廃城後に城外へ移築されたのち、この場所に再移築された(掛川市文化財)。

掛川城101大手門.jpg

外堀として機能した逆川を渡り、本丸へ。

②本丸門前の枡形を十露盤(そろばん)堀北側から撮影。正保城絵図を参考に建設された四足門(しそくもん)を入ると、本丸門前に十露盤堀・三日月堀で囲まれた枡形空間がある(正保城絵図では土塀と門で囲まれている)。これらの堀は発掘調査後復元整備された。

掛川城111十露盤堀.jpg

③本丸門跡を入ったところから太鼓櫓を撮影。太鼓櫓は、元は三の丸にあり、安政東海地震で倒壊後に再建され、廃城後は城外への移築を経て一旦三の丸に戻った後、1955年に現在の本丸東南部へ移築された(市文化財)。なお、石垣は現代のものである(正保城絵図では本丸は土塁囲い)。

掛川城117本丸門.jpg

④本丸から天守丸を撮影。標高57mの山頂部が天守丸。つづら折りの登城路は発掘調査後、整備された。天守建物は、山内一豊創建のものは江戸時代初めの地震で損壊したようで1623年頃に修復されその姿は正保城絵図に描かれている。その後、安政東海大地震で損壊し取り壊されたようだ。1994年に、掛川市民からの寄付金をもとに、正保城絵図等の絵図+高知城天守を参考に設計された木造天守がよみがえった。

掛川城118天守丸.jpg

⑤天守台南東面。天守台南面石垣は山内時代の石垣が残っているようだ。隅角部はきれいな算木積みなので現代の積直しと思われる。天守台の中心部は1905年の平和観音像建立時に大部分破壊されたが、南面及び西面の一部には旧石垣が残っているとのこと(「掛川城のすべて」1996年3月)。

掛川城123天守台南東面.jpg

天守丸を下りて、本丸から二の丸御殿へ。

⑥二の丸御殿。安政東海大地震で倒壊後、1861年に再建されたもので、城主の居間と藩の政庁があった。廃城後は学校・町役場等に使用されたのち、修復工事が行われた(国重要文化財)。入館料は天守とセットで410円。ここで安政東海地震後の「遠江国掛川城地震之説損所之覚図」(2080円)を購入。

掛川城138二の丸御殿.jpg

このあと、掛川市内の圓満寺に移築された蕗門へ(旧東海道沿いにある)。

⑦蕗門(ふきのもん)。二の丸と三の丸の間の通路の入口にあったが、廃城後に圓満寺に移築され現存している(市文化財)。瓦紋は「丸に桔梗紋」(江戸時代後半の藩主太田氏の家紋)で、屋根に亀飾りが付いている。

掛川城140旧三の丸蕗門(円満寺).jpg

このほかに、大手門と同型式の櫓門である玄関下御門(蕗門の次に通る門)が袋井市の油山寺に移築され現存している(国重要文化財)が、遠いので別の機会に。掛川滞在は1時間20分ほどで、掛川駅17時4分発のこだま666号で帰路についた。掛川城跡は、史跡に指定されていないため、古写真や創建時の図面などに基づく忠実な建造物復元は不要であるメリットを生かして、天守・大手門など平成の再建・整備が行われ歴史的景観を醸し出している。

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