高松城 2016.12.24 [香川県]
各紙に報道されたように2020年4月17日文化庁のリリースによると、文化審議会文化財分科会(時節柄、持ち回り開催)が「史跡等における歴史的建造物の復元等に関する基準」を決定、従来の厳密な「復元」とは別に「復元的整備」という項目が設けられ、「往時の歴史的建造物の規模、材料、内部・外部の意匠・構造等の一部について、学術的な調査を尽くしても史資料が十分に揃わない場合に、それらを多角的に検証して再現することで、史跡等全体の保存及び活用を推進する行為」もOKとなった。
高松市は、高松城天守復元を目指して、天守台石垣の解体修理・発掘調査のほか文献資料の調査・探索を行っているが、今回の基準設定により「復元的整備」が可能となったようだ(高松城跡は国指定史跡)。
高松城を訪れたのは2016年12月24日のこと。帰省中の岡山からJR快速マリンライナーで高松駅へ。高松駅から東へ2~3分歩くと二の丸西入口(玉藻公園西入口)に着く(入場料200円、現在も同じ)。
①二の丸西入口。往時は二の丸堀があり、刎橋(はねばし)口といわれていたようだ。
②二の丸から南側の本丸へは鞘橋(さやばし)を渡って行く。天守台から鞘橋を撮影。現在の橋は2011年に解体修理されたもの。
③天守台南東面を三の丸側から撮影。天守台は、2006年から2013年まで発掘調査・解体・修復工事が行われた。
隅角部は算木積みだがそれ以外は野面積みである。
④天守復元模型(南面)。三の丸の陳列館に展示されている。三層四階で最上階が張り出す南蛮造り。南面と東面の古写真・古記録などから外観はかなり正確な復元が可能となったが、内部の構造・意匠に関する資料の探索・調査が復元のための課題となっている。天守は、豊臣系大名の生駒氏によって最初に築かれ、生駒氏改易後に入った松平頼重によって1670年に改築され明治維新後も残っていたが、老朽化のため1884年(明治17年)に解体された。
⑤北の丸西端に現存する月見櫓(着見櫓)・水手御門・渡櫓(1676年築、いずれも重文)。北の丸は、松平頼重により埋立て増設された曲輪で、かつては瀬戸内海に面していた。
⑥艮(うしとら)櫓(重文)南東面。1677年に竣工したもので、以前は史跡範囲外の東の丸北東隅(うしとら方向)にあったが、1967年に三の丸の南側、桜の馬場の南東隅(太鼓櫓跡)に移築された。
⑦艮櫓台北東面。現在、レクザムホール(香川県県民ホール)の北東隅に東の丸艮櫓台が残っている。かつては瀬戸内海に面していた。
⑧琴電高松築港駅。本丸・二の丸の西堀跡は駅のホームとなっている。
埋立てにより海城という雰囲気は失われたが、三重櫓が2棟現存しているのは貴重。
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