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会津若松城 2017.5.2 [福島県]

もともと夏場は暑くて城めぐりは控えていますが、今年は感染症対応でさらに自制中。という訳で、過去の記録の整理ということで、2017年5月2日(火)に訪れた会津若松城。

都内から東北新幹線で郡山駅下車、高速バス(会津交通運行)で郡山駅前10時5分発→鶴ヶ城・合同庁舎前11時20分着。南方向へ歩くと西出丸が見えてくる。城は中世の蘆名氏の館が起源とされ、1590年の豊臣秀吉奥州仕置後に入った蒲生氏郷により豊臣系城郭へ大改造され、その後、1639年(加藤明成時代)に大改修されたものが、現在の遺構となっている(国指定史跡)。

①西出丸西面越しの天守。西出丸は角馬出型で、南東隅に内讃岐門、北東隅に西大手門があった。蒲生氏郷時代に造られた馬出を1639年に拡張し石垣造りに改造したもの。現在、内部は駐車場となっている。

会津若松城102西出丸西.jpg

②北出丸石垣上から追手門大腰掛を撮影。西出丸を南から北へ通り抜けて、北出丸外周を廻り追手門跡へ。虎口は枡形虎口で、外側にあたる部分に大腰掛(防衛陣地の銃座)、右折すると櫓門があった。北出丸も西出丸と同形式で南東隅に追手(大手)門、南西隅に西門があった。

会津若松城120北出丸大手門大腰掛.jpg

③北出丸から南の椿坂を通り本丸帯郭北虎口の太鼓門跡へ。本丸は台地上にあり、出丸からは坂を登ることになる。城地は東から西へ延びる扇状地上にあるようだ。

会津若松城123本丸太鼓門.jpg

④天守台南西隅。天守台石垣は自然石を積んだ野面乱積みの緩い傾斜で蒲生氏郷時代のものとされる。天守は、1593年(蒲生氏郷時代)に七重で築かれ、1611年の会津大地震で破損後、1639年に五重に改造され、戊辰戦争を耐え抜いたものの、1874年に他の建物と一緒に取り壊され、1965年に鉄骨コンクリートで外観復元された。

会津若松城140天守南西面.jpg

⑤鉄(くろがね)門から本丸へ入り、入場券を購入し天守へ登る。天守最上階から南側の北走長屋・鉄門(1965年鉄骨コンクリート外観復元)、南走長屋・干飯櫓(2000年、木造復元)を撮影。本丸帯郭と本丸(御殿側)を東西に仕切っている。

会津若松城150天守より走長屋.jpg

⑥天守最上階から東側の本丸を撮影。手前の芝生一帯が御殿跡、中央の柵で四角に囲まれた所が御三階跡、右端が茶室麟閣。

会津若松城148天守より御三階跡.jpg

⑦茶室麒閣。千利休の子の少庵が蒲生氏郷のために造ったと伝えられる。戊辰戦争後、市内の茶人森川氏邸に移築された後、1990年に元の場所に移築復元された。別棟で抹茶をいただくことができる。

会津若松城163茶室麟閣.jpg

⑧茶壺櫓跡から本丸東側石垣を撮影。打込接(うちこみはぎ)布積みで加藤明成時代のもののようだ。本丸の周囲ではこの一面だけが高石垣(19m)で、他は土塁上に石垣を築いた鉢巻石垣となっている。橋(廊下橋)の右側(東側)は二の丸。

会津若松城160本丸東面.jpg

本丸から廊下橋を渡り二の丸へ、二の丸東門跡から三の丸へ入り北の埋門跡あたりから城外へ出て天寧寺町土塁へ。

⑨天寧寺町土塁。蒲生氏郷時代に造られた、城下町を囲う総構の東端の土塁遺構。

会津若松城177総構土塁.jpg

甲賀町口郭門跡の石垣裏側。天寧寺町土塁から御薬園に立ち寄った後、総構北側入口の甲賀町口郭門跡(大手筋にあたる)へ。正面写真はよく見かけるが、これは裏側。次に向かうのは本丸御三階が移築された阿弥陀寺。

会津若松城181甲賀町口郭門.jpg

⑪戊辰戦争後、阿弥陀寺に移築され本堂として使用された御三階。外観は3階だが、内部は4階になっている。1階張出部分(唐破屋根の玄関)は本丸御殿玄関を移築したもの。阿弥陀寺には戊辰戦争の東軍墓地がある。

会津若松城183阿弥陀寺御三階.jpg

歩き疲れて最後は、阿弥陀寺東から周遊バス「あかべえ」に乗り若松駅前へ。高速バスで、若松駅前ターミナル1550分発→郡山駅前1710分着、東北新幹線経由で佐野市へ向かう(翌日は唐沢山城へ)。

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