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岡崎城 2021.3.23 [愛知県]

豊橋から名鉄名古屋本線で東岡崎駅に着いたのは2021年3月21日(火)1321分。駅北口から北西方向の岡崎城を目指す。岡崎城は、乙川(菅生川)が矢作川に合流する手前の北岸の河岸段丘上(標高約24mの龍頭(りゅうとう)山)に、15世紀半ば頃に西郷頼嗣(青海入道)が築城。1531年から松平氏の本拠地となり、浜松への本拠地移転後も三河支配の拠点としていたが、1590年の徳川家康の関東移封後に豊臣系大名の田中吉政が入り拡張・改造を行った。関ヶ原戦後は譜代大名が城主を務め、明治維新後に廃城となり建物は取り壊された。その後、1875年に本丸・二の丸跡は岡崎公園となり、1962年には岡崎市指定史跡となり、近年、継続的に発掘調査が行われている。

①乙川(菅生川)対岸からの景観。画面の土手下の石垣は、江戸時代初期に防御・治水のため築かれた菅生川端石垣で、発掘調査により全長400m、高さ5.4mに及ぶことが確認された。

岡崎城101乙川対岸より.jpg

なお、325日からの桜まつりに向け河川敷では露店(2020年は中止、2021年は制限付き実施)の準備中。橋を渡り川沿いの道を進んで、岡崎公園南側の龍城(たつき)堀を渡り、本丸下段の風呂谷曲輪へ。

②本丸南面石垣。画面右側の脇多門櫓台は野面積みで隅角部は算木積みが未完成(田中吉政期のものか?)、左側の月見櫓台は割石を用いた打込接で隅角部はきれいな算木積み(江戸時代以降のもの)。

岡崎城110本丸月見櫓台・脇多門櫓台.jpg

ここから右へ進むと風呂谷曲輪から本丸南側虎口の風呂谷門跡へ上がる石段となる。

③本丸風呂谷門跡への石段。趣のある野面積み石垣が続いている。田中吉政期のものだろうか。

岡崎城111本丸風呂谷門跡.jpg

左に戻って、本丸西側虎口の埋門跡へ。

④本丸埋門跡。面は野面積みだが、隅角部はきれいな算木積み。

岡崎城116本丸埋門跡.jpg

⑤天守南面。天守台石垣は、野面積みで隅角部は算木積みが未完成なことから、田中吉政期のものと考えられている。画面右側は龍城(たつき)神社の社殿。

岡崎城118天守.jpg

天守建物は、田中吉政による初代は地震で倒壊、1617年に再建されたものは明治維新後に取り壊されたが、1959年に古写真を基に鉄筋コンクリート造りで井戸櫓・付櫓とともに建設された。天守最上階に廻縁・高欄を付け加えたりしているため古写真の外観とは少し異なっている。埋門跡から本丸を出て、本丸西側の坂谷(さかたに)曲輪の坂谷門跡へ。

⑥坂谷門跡。西の白山曲輪から丸馬出→土橋→枡形虎口と続く厳重な関門だったが、現在は枡形虎口の櫓門跡の石垣が残っている。

岡崎城125坂谷門跡.jpg

坂谷曲輪から本丸北側を守る持仏堂曲輪の北側(二の丸)へ回り込む。

⑦二の丸から持仏堂曲輪と青海堀を撮影。持仏堂曲輪の周囲の空堀は初代築城主の法名を取って青海堀といわれ、土造りで中世城館の雰囲気にあふれている。

岡崎城134持仏堂曲輪北堀.jpg

⑧持仏堂曲輪太鼓門跡。二の丸から持仏堂曲輪への入口。

岡崎城135持仏堂曲輪太鼓門跡.jpg

持仏堂曲輪と本丸天守北側の間の廊下橋跡へ。

⑨廊下橋跡から天守北面を撮影。天守台石垣の鏡石が見所。

岡崎城138天守北面.jpg

⑩持仏堂曲輪と本丸の間の清海堀。本丸側は土造り、持仏堂曲輪側は石垣造りの空堀。石垣上のカーブする細長い通路の先に本丸東側虎口の大手口がある。

岡崎城141清海堀.jpg

⑪本丸大手口。切石を用いた切込接の本丸御門石垣(枡形虎口の一部)が残る。

岡崎城147本丸大手口.jpg

本丸へは入らず、南東方向の隠居曲輪→菅生曲輪へ。菅生曲輪は武家屋敷地で、現在は多目的広場となっている。⑫菅生曲輪から二の丸・東曲輪南東面を撮影。画面左に二の丸南東面の石垣が残る。右の櫓は東曲輪東隅櫓で、発掘調査のうえ在来工法による木造で2010年に建設されたもの。東隅櫓東下の切通しに堀底の石垣遺構を見ることができる。

岡崎城155二の丸・東曲輪.jpg

おもな遺構をめぐったので東岡崎駅に引き返し、1417分発の快速特急で豊橋に戻り帰途につく。なお、本記事の解説内容は、岡崎市の「岡崎城跡整備基本計画」、「岡崎城跡石垣めぐり」などによりました。

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