SSブログ

上田城 2021.10.2 [長野県]

松代からバスで長野駅まで戻り北陸新幹線で上田へ。上田駅北口(お城口)から坂道を上り、まず藩主居館跡へ。
①藩主居館跡。現在は上田高校の敷地となっているが、表門と堀・土塁・土塀の一部が残る(上田市文化財)。関ヶ原合戦後に上田城は破却されたため、上田領を受け継いだ真田信之はここに居館を構え、歴代藩主の仙石氏、松平氏も居館として使用した。東側に残る表門は1790年に再建されたもの、土塀は竹矢来にかえて1863年に建てられたものだが、石積は現代のもの。
上田城105居館.jpg
西に進み、二の丸へ。
②二の丸堀と東虎口。二の丸は土塁囲いで虎口のみ石垣造りとなっていた。東虎口は、本来は枡形虎口だったが明治以降に改変されている。二の丸堀東側は、昭和期に上田交通真田傍陽(そえひ)線として利用され、現在はケヤキ並木遊歩道となっている。
上田城108二の丸東虎口.jpg
さらに西に進み本丸へ。
③本丸東虎口。画面左から南櫓・櫓門・北櫓と並ぶ。チケットを購入し見学することができる(靴を履いたまま)。
上田城179本丸東虎口 (2).jpg
真田昌幸により1583年に築かれた上田城は関ヶ原合戦後に破却されそのままとなっていたが、信之のあと城主になった仙石忠政が1626年から復興工事に取りかかったものの1628年に病死して中断となった。このとき本丸に築かれた二重櫓7棟、櫓門2棟は幕末まで維持補修されていたが、明治になって払い下げられ、西櫓を除き移築又は解体された。北櫓・南櫓は城外に移築されていたが19421949年にかけて再移築・復旧したもの(県指定文化財:長野県では県宝という)。櫓門は1994年に古写真等に基づき復元されたもの。
④本丸東堀南端石垣を土橋から撮影。土橋より南側は空堀だが水抜き穴が開いている。
上田城114本丸南東堀石垣.jpg
⑤本丸上段と下段の段差石垣。本丸を北側と南側に二分する段差石垣。明治期に本丸一帯を取得した丸山氏が下段を松平(しょうへい)神社に寄付し神社が建立された(戦後、歴代城主を合祀することになり上田神社、さらに眞田神社と改称)。松代城に比べ来城者が多い理由の一つには神社参拝する方が多いこともありそうだ。
上田城133本丸仕切.jpg
⑥本丸土塁西側。本丸上段は小高い土塁に囲まれている。真田氏沼田城には天守があったので、真田氏上田城にも天守があった可能性はあるが、北西隅にあったのかもしれない(西側の堀底から金箔の付着したシャチホコの破片が出土)。
上田城131西土塁.jpg
⑦本丸西虎口。画面右が西櫓(県宝)。往時は画面左に櫓門と二重櫓がある枡形虎口だったが、明治期に左側の櫓台石垣は解体搬出されて失われた。
上田城140本丸西虎口.jpg
本丸から崖沿いの坂道を降りて尼ヶ淵へ。
⑧本丸西虎口土橋南側。下方に排水溝がある。尼ヶ淵に降りる途中で撮影。
上田城145本丸西土橋.jpg
⑨尼ヶ淵よりの景観。上田城は千曲川に浸食された上田泥流層段丘端に位置し、本丸南側は約12mの崖となっており尼ヶ淵と呼ばれている。
上田城156尼ヶ淵.jpg
本丸西虎口前に戻って、二の丸西虎口跡へ。ここの石垣は失われているが堀と土塁の遺構は残っている。さらに、二の丸北虎口へ。
⑩二の丸北虎口。石垣は1993年までに復元整備されたもの。喰違虎口のように見えるが、正保城絵図を見ると本来は枡形虎口だったようだ。
上田城165二の丸北虎口.jpg
⑪二の丸北虎口土橋西側。土橋の端に石樋が残っている。土橋西側一帯は、現在、陸上競技場となっているが、往時は百間堀という大規模な堀があった。
上田城167北虎口土橋西側.jpg
⑫本丸北東隅。丑寅(北東)隅は「鬼門除け」(鬼が出入りする方角を忌み嫌う)として角を切り込み、隅櫓2棟をその両脇に築いており、隅欠(すみおとし)とよばれる。現在、この2棟の櫓を復元する計画があり(本丸東虎口前の武者溜りも復元する計画)、上田市では資料を募集中。
上田城173北東隅堀.jpg
上田滞在は約110分間、市立博物館はかなりとばして帰路についた。なお、本記事の解説内容はおもに現地説明板と上田市ウェブサイトによりました。


 


nice!(0)  コメント(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。