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西方城 2023.1.18 [栃木県]

戦国時代の工夫された縄張りが見学しやすく維持管理されている栃木市北部(旧西方町)の山城、西方城を訪れる。都内からJRで栗橋駅へ、栗橋駅からは東武日光線で東武金崎駅下車、西方向へ40分ほど歩くと麓の長徳寺前の見学者用駐車場に到着する。
①城山東面全景。城山標高221m、撮影地点は84mなので比高137mと比較的登りやすい高さだが、山中には「イノシシ出没注意」の表示が至る所にある。
西方城102城山全景.jpg
②見学者用駐車場にある案内図(画面右が北)。番号は見所を指しており、この順番に、まず北側斜面の竪堀を登り北の丸へ、北の丸からは尾根を削平した曲輪を南進して本丸へ、本丸からは東の丸方向へ下る周回コースを歩く。
西方城104縄張図.jpg
10分ほど山道を登ると右方向を指す案内板があり、北側斜面を東西に貫く竪堀に入る。
③北側斜面の竪堀を見おろす。落ち葉があまり堆積しておらず登りやすい。
西方城118竪堀.jpg
竪堀を登り切った所は、北の丸突出部切岸と馬出で防御している。
④北の丸北側の馬出。後方が北の丸切岸。
西方城123馬出.jpg
北の丸を南進して枡形虎口へ。
⑤北の丸南枡形虎口。ジグザグ屈曲する通路で、右側が小高い防御陣地となっている。
西方城132北の丸南虎口.jpg
枡形虎口を抜けると土塁と空堀で東西に区切っており、土橋を通り南隣の曲輪(名称なし)へ。
⑥北の丸南隣の曲輪の北虎口と土橋。
西方城136北の丸南虎口.jpg
さらに土塁と空堀で東西に区切った南隣が二の丸。土橋を通って二の丸へ。
⑦二の丸北虎口と土橋。
西方城139二の丸北虎口.jpg
二の丸の南隣が本丸となる。北の丸から本丸までは南北に延びるなだらかな尾根となっているので直線連郭式の構造になっているものと思われる。
⑧本丸北虎口。
西方城143本丸北虎口.jpg
⑨本丸内。石列が露出しており、別の場所でも発掘調査により石列が発見されている。通路の境界線か石築地のようだ。本丸周囲は土塁で囲まれている。
西方城144本丸内.jpg
⑩本丸南虎口。本丸南隣の曲輪から堀底に下りて本丸に上るルートだが、木橋が架かっていたのかもしれない。
西方城147本丸南虎口.jpg
⑪本丸南東下枡形虎口を東側から撮影。本丸南隣の曲輪を南東方向へ下りた所にある枡形虎口。ここから西方向へ行くと西の丸、南方向へ行くと南の丸、東へ下って行くと東の丸となり、防御の要だったと思われる。
西方城153本丸南郭東枡形.jpg
東の丸へ下って行く途中に井戸跡がある。
⑫井戸跡。井戸は埋まっているが、周囲の土塁には石積みの遺構が残っている。
西方城164井戸跡.jpg
⑬さらに下った所にあるのが東の丸西側の枡形虎口。東の丸側が大手筋と考えられている。
西方城168東の丸西馬出.jpg
⑭東の丸を後にして北東側へ下りて行く途中に石組みが2箇所あり、そのうちの1つ。用途はなんだろう。
西方城174石組み.jpg
麓に下りて、隣の二条城へ向かう。
[メモ]西方城は、宇都宮氏の一族の西方氏が宇都宮氏の西の拠点として室町時代に築城したようで、戦国時代には南隣の皆川氏との戦いの最前線となった。1590年の小田原北条氏の関東支配解体後は結城氏支配下となったが、城がどうなったかはわかっていない。結城氏の福井転封後に藤田信吉が入り西方藩が成立したが西方城ではなく東隣の二条城を居城とし、西方城は廃城となったようだ。2019年度から栃木市による発掘調査が行われている。



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