高岡城跡とは対照的にスクラップアンドビルドの富山城跡。富山駅から市内電車で5分、丸の内で下りるとすぐ南内堀前に着きます。
南内堀。左手前が西之丸跡、その奥が本丸跡。西之丸は本来、堀と土塁で囲まれて本丸と土橋で繋ぐ構造でしたが、廃藩置県後、土塁は崩され南面を除き堀は埋め立てられ公共施設用地となりました(現在は城址公園の一部)。

本丸鉄(くろがね)門枡形石垣。南側の二之丸から土橋を通り本丸鉄門から入る構造で、富山城では、石垣はここと搦手門周辺、二之丸門周辺だけに用いられ、他は土塁造りでした。石垣は明治以降に積み直された部分が多いそうです。

鉄門枡形正面の鏡石。2石ありますが1石は松に少し隠れています。能登半島地震のため石垣崩落の危険があるとのことで土橋及び枡形内は通行禁止となっているため、富山城最大の見どころですが遠くから見るだけです。

④あとで郷土博物館側から見た鉄門枡形両脇の鏡石。左(東)に2石、右(西)に1石、ということで合計5石、陰陽五行説に基づく配置のようです(富山市埋蔵文化センターウェブサイト「富山城研究コーナー」)。

西の堀端から城址公園に入り、鉄門枡形本丸内側へ。
鉄門枡形本丸内側。通行禁止の規制ラインが設置されています。

枡形石垣上の天守風建物は、空襲被害からの戦災復興記念として1954年に建設された富山市郷土博物館(耐震工事済み)です。富山城の築城から明治以降の変遷が展示のメインとなっています。
郷土博物館から出て城址公園南東隅に向かいます。
本丸南東隅の天守建設予定地。災害が続き財政難で建設は見送られたようです。

本丸東側に移築された千歳御門があります。
千歳御門(市指定文化財)。東出丸のさらに東側に築かれた千歳御殿(1849年築)の正門で民間に払い下げられた後、2008年に移築されました。

千歳御門のあたりは江戸時代には土塁で、本丸東側の入口は東出丸と土橋で繋がっていた北側の搦手門でした。
搦手門跡周辺の石垣。石垣上には城郭風の佐藤記念美術館が建っていますが、左中央付近の石垣は寛文期(1661年~72年)の横目地の通る積み方が残っているとされます(「富山城研究コーナー」)。

帰りは富山駅まで歩き、高山に向け高山本線特急ひだに乗車します。
[メモ]郷土博物館『富山城ものがたり』によると、富山城は、神通川(当時は城の北を流れていた)の自然堤防の微高地に1543年に神保長職(ながもと)が築き、そののち越後上杉氏、織田家臣佐々成政の支配を経て、加賀前田家支配となり、1605年に前田利長が隠居城として大規模な改修を行い近世城郭として整備しました。しかし、1609年に大火で焼失したため利長は高岡城を築いて移転、1615年に一旦廃城となりました。その後、1639年に加賀藩から富山藩10万石を前田利次に分与、新城を築く予定でしたが断念し、1660年に富山城を居城として整備しました。ところで、富山城は本丸と東・南・西の曲輪と土橋で個別に繋ぐ構造ですが、高岡城は本丸の東から南の曲輪群を連結する構造です。利長が富山城の経験を生かして高岡城を築城したのでしょうか。