松山城(武蔵)は、埼玉県比企郡吉見町に所在、市野川の湾曲部に囲まれた丘陵の先端部(標高57.8m)に位置する。築城は関東地方が戦国時代に突入する15世紀後半と考えられており、16世紀に入ると、扇谷上杉氏と小田原北条氏との攻防、小田原北条氏と上杉謙信との攻防などの舞台として文献に頻繁に登場、小田原北条氏支配時代には上田氏が城主を務めた。徳川家康の関東移封後は一門の松平氏が城主となったが1601年に廃城となり、現在は、比企城館跡群の一つとして国史跡となっている。

2020年3月18日(水)、都内から東武東上線で東松山駅10時24分着。駅から東方向に2kmほど歩くと城山が見えてくる。

①市野川の手前から城山西面を撮影。画面左方向に進むと吉見百穴(ひゃくあな)がある。ここには吉見町埋蔵文化財センターがあり、松山城跡のパンフレットを入手できるはずだったが、感染症予防対応で閉館中。隣の「百穴発掘の家」の人に話したところ、ありがたいことに2種類のパンフレット(コート紙版に掲載されている案内図=縄張図はわかりやすい)をいただいた。


②岩室(いわむろ)観音堂からの伝搦手入口。吉見百穴を見学した後、城山北西麓の岩室観音堂へ。この奥が搦手口と伝わるが、現在は通行禁止となっている。このあたりは、吉見百穴と同じ地質(凝灰質砂岩)のようで崖となっている。


③現在の登城口(11時30分頃)。現在の登城口は、城山南東麓にある。急な坂道を登って行くと5分程度で頂上の本曲輪に達する。


④本曲輪。曲輪内と通路は概ね下草が刈り取られており歩きやすい。


⑤堀底を歩いて東側の二ノ曲輪へ。二ノ曲輪から本曲輪との間の空堀を撮影。二ノ曲輪は本郭側にコの字状(画面はその南半分)を描いており、本来なら本曲輪の突出部(物見櫓跡)が見えるはずだが、堀に藪が生い茂っているため見えない。


⑥二ノ曲輪から東側の三ノ曲輪への堀底の通路を撮影。二ノ曲輪と三ノ曲輪の間の堀にも藪が生い茂っている。


⑦三ノ曲輪から南の馬出を撮影。画面中央の土橋を渡って馬出へ。馬出を帯曲輪にそって左折し、三ノ曲輪とその東の曲輪4の間の堀底へ。


⑧三ノ曲輪と曲輪4の間の堀。ここは下草が刈り取られており歩きやすい。堀底を北西に進むと惣曲輪(居館跡?)が広がっている。大手口は惣曲輪の東側だったのだろうか。


⑨惣曲輪を通り抜け、南の本曲輪方向へ進んで行くと竪堀のような崖がある。案内図を見ると伝搦手口と判明。岩室観音堂の屋根が見えるが、急斜面なので通路だったのかやや疑問。


さらに南へ進み「兵糧倉」曲輪を経て、本曲輪へ戻り、登城口から12時30分頃に退城。1時間ほどの一周コースだったが、このほかにも各所に曲輪が散在しており、散策ルートは色々ありそうだ。