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岡の城山 2022.2.26 [埼玉県]

春の気配を感じる2022年226日(土)、太田道灌築城伝説のある岡の城山を訪れる。JR武蔵野線の北朝霞駅から南方向に進んで時計回りに湾曲する黒目(くろめ)川沿いの土手道(桜並木のある散歩道)をしばらく歩くと岡の城山(地域名の「岡」+通称「城山」)が見えてくる。
①黒目川土手からの城山北東面全景。城は、東方向に突き出た舌状台地上に東から西に向かって4つの郭(Ⅰの郭~Ⅳの郭)が築かれている。標高は山頂で21m、麓67mなので比高14mほどになる。
岡の城山102黒目川越し北東面全景.jpg
峰岸純夫・齋藤慎一編『関東の名城を歩く南関東編』によると、城の名称や城主名は伝わっていないが、1559年の「小田原衆所領役帳」にこの地域は太田康資(道灌の曾孫、当時は北条氏に属していた)の筆頭領地と記されており、太田氏が城主だったと推定(そこから道灌築城伝説が生まれたのだろうか)。1564年に康資が北条氏に反旗を翻し国府台合戦で敗れたあと城はどうなったか不明。江戸時代には村民持ちの山となり、現在は朝霞市の城山公園となっている。1969年には埼玉県の重要遺跡に選定(県指定史跡に準じるもの)されている。
東端のⅠの郭へ登って行く。
②Ⅰの郭への登り口。ちょっときつい登り。
岡の城山104Ⅰ郭東側登り口.jpg
③Ⅰの郭南東隅の物見櫓台跡。Ⅰの郭は城内最高所で見張台があったのだろう。郭の周囲には土塁が築かれている。
岡の城山105Ⅰ郭南東櫓台.jpg
西方向に進みⅡの郭へ。
④Ⅰの郭とⅡの郭のあいだの空堀。樹木と土砂でかなり埋まっているようだ。
岡の城山109Ⅰ郭とⅡ郭間の堀.jpg
⑤Ⅱの郭内部。城内で最大の郭。
岡の城山110Ⅱ郭内東→西.jpg
さらに西に進む。
⑥Ⅱの郭とⅢの郭のあいだの空堀。堀幅はかなり広い。
岡の城山111Ⅱ郭とⅢ郭間の堀.jpg
Ⅲの郭、そしてⅣの郭の残欠を通って、城の西端へ下りる。
⑦西端。道路工事と公園造成工事によりⅣの郭の大半は失われた。
岡の城山112西端.jpg
西端が失われたとはいえ、中世城跡の遺構が開発されず保存されてきたのは太田道灌築城伝説があったためだろうか。


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滝の城 2021.1.16 [埼玉県]

2021年1月16日(土)、緊急事態宣言下なので、近くの滝の城を訪れる。滝の城は、所沢市東部の柳瀬川と東川の合流点近くの台地上に位置し、山内上杉氏に属していた大石氏が15世紀後半に築いたとされる(扇谷上杉氏が江戸・河越を結ぶ「つなぎの城」として築いたという説もある)。両上杉氏が北条氏によって倒された後、大石氏の養子となった北条氏照の持ち城となり、拡張整備されたが、1590年の豊臣秀吉による北条氏攻略により落城し廃城となった。江戸時代には本郭跡に愛宕神社が祀られていたが、明治時代に天神・熊野・八幡社を合祀し城山神社となった。良好に遺構が残されていることから1926年に埼玉県史跡として文化財指定された。

JR武蔵野線東所沢駅957分下車、北東方向に20分程度歩くと、城(城山神社)の北西側入口に着く。

①北西側入口の二の郭中堀前の土塁。土塁前には外堀があった。外堀を発掘調査した場所では障子堀が確認されている。

滝の城103二ノ郭前西側土塁.jpg

②二の郭前中堀。城の台地側(北西側)は内堀・中堀・外堀の三重の堀と土塁で防御されていた。

滝の城106二の郭西側中堀.jpg

③二の郭から馬出を撮影。二の郭の東側にある馬出で、北東側(画面左)が大手口方向、南側(画面右)の本郭へは木橋が架かっていた。

滝の城108馬出.jpg

④馬出前の中堀と土塁。土塁の外側には外堀があり、防御を固めていたようだ。

滝の城109馬出前中堀.jpg

⑤馬出から内堀を跨いで本郭へ架かっていた木橋跡。発掘調査により本郭側(画面右側)には四脚門跡が確認された。

滝の城118本郭北内堀.jpg

⑥本郭前内堀。

滝の城119本郭北内堀.jpg

⑦本郭(標高47m)から東方向の眺望。

滝の城114本郭から東方向の眺望.jpg

⑧三の郭前中堀。画面左が三の郭で本郭の北東側にあたる。

滝の城132三の郭北側中堀.jpg

三の郭の中堀から遊歩道を南に下って滝の城址公園へ降りて、北東に進み、「滝の城」の名の由来になった滝へ。

⑨金津の滝。枯れてしまっているようだ。

滝の城136金津の滝.jpg

⑩柳瀬川土手から本郭・三の郭南東側を撮影。城の南東側は崖(比高25m)になっている。

滝の城139柳瀬川土手より.jpg

滝の城滞在はおよそ1時間で帰路につく。城跡は下草刈りなどきれいに維持管理されており、堀底を歩くことができる。なお、郭名称・解説については、所沢市ウェブサイトにある「埼玉県指定史跡滝の城跡発掘調査概要」によった。

 


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菅谷館 2020.3.26 [埼玉県]

菅谷(すがや)館は、埼玉県比企郡嵐山町に所在、北側は湿地帯、南は都幾川断崖、東側と西側は谷川に囲まれた要害立地となっている。鎌倉時代の畠山重忠の館伝承に起源を持つことから「菅谷館跡」として国指定史跡(比企城館跡群の一つ)となっているため、「城」ではなく「館」という呼称が付いているようだ。東京ドーム3個分ほどの広さの中に戦国時代(山内上杉氏の拠点となったのち廃城か)の大規模な土塁と堀の遺構が残っているので「城」と呼ぶほうがふさわしいのでは。

3月26日(木)、東武東上線武蔵嵐山駅から南西に1kmほど歩くと三ノ郭の土塁と堀が見えてくる。

①三ノ郭搦手門跡付近。三ノ郭は城の北東部にあり、土塁と堀がめぐっている。搦手門跡を入ったところに埼玉県立嵐山史跡の博物館があるが、現在は感染症予防対応で休館中。

菅谷城1202搦手門跡.jpg

②西ノ郭から三ノ郭への木橋(現在の橋は1981年製)。一旦、三ノ郭から木橋を渡って西ノ郭へ行き西端の大手門跡を見た後、三ノ郭虎口へ戻る。

菅谷城1209西ノ郭と三ノ郭間堀.jpg

③三ノ郭虎口。虎口を入った正面に目隠しとなる蔀(しとみ)土塁(画面左の円い土塁)がある。

菅谷城1214正坫門跡.jpg

④三ノ郭南にある馬出状突出部。三ノ郭から二ノ郭への本来(多分)のルート上に馬出状の突出部がある。

菅谷城1218三ノ郭馬出.jpg

⑤三ノ郭から二ノ郭へ堀を渡る木橋跡(推測)。馬出状の突出部から木橋を渡って二ノ郭虎口(画面中央)へ入ったものと推測される。現在は木橋がないので博物館南側(本来はここに堀があったようだ)を通り二ノ郭へ。

菅谷城1220二ノ郭門跡.jpg

⑥本郭土橋と出枡形土塁(画面右)。二ノ郭から本郭へは土橋を渡って虎口を入るが、その西側は土塁が突出し横矢がかかる構造となっている。

菅谷城1234本郭土橋.jpg

⑦土橋東側の本郭堀。カーブが美しい。

菅谷城1224土橋東堀.jpg

本郭から、南郭→二ノ郭→三ノ郭と回り、帰途につく。草の伸びない春先のこともあるがきれいに整備されている。なお、郭名称等は、「嵐山史跡の博物館」ウェブサイトによる。


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鉢形城 2020.3.21 [埼玉県]

久しぶりに埼玉県寄居町の鉢形城を訪れたのはエドヒガンザクラ満開の2020年3月21日(土)のこと。屋外の広々とした公園のためか例年通りの賑わい(鉢形城歴史館は感染症予防対応で閉館中)。

①対岸から撮影した荒川断崖上の城跡。戦国時代、長尾景春や山内上杉氏の拠点となった後、北条氏邦が入り小田原北条氏の北関東支配の拠点として整備された。徳川家康の関東入国後は代官が入ったが間もなく廃城となった。

鉢形城1301荒川から北面.jpg

②伝御殿曲輪。この一帯は本曲輪で荒川崖上の小高い丘が伝御殿曲輪、下の広場が伝御殿下曲輪と呼ばれている。

鉢形城1310御殿下曲輪より御殿曲輪.jpg

③エドヒガンザクラ(愛称:氏邦桜)。二の曲輪の東端切岸上に咲く。

鉢形城0316エドヒガンザクラ.jpg

④二の曲輪と三の曲輪のあいだの堀(発掘により復元されたもの)。この奥に馬出がある。

鉢形城0317二の曲輪と三の曲輪間の堀.jpg

⑤二の曲輪前の馬出。二の曲輪西側(荒川側)の馬出で内部は石積されている。

鉢形城1318馬出.jpg

⑥伝秩父曲輪石積土塁(復元)。土塁内側を石積で補強したもので主に川原石を使用。以前は土塁上を歩くことができたが、現在は崩落防止のため通行禁止。

鉢形城1320三の曲輪石積土塁.jpg

⑦三の曲輪虎口内側。虎口を入って画面右が伝秩父曲輪入口の四脚門(推定復元)。

鉢形城1324三の曲輪虎口.jpg

⑧伝逸見曲輪から弁天社跡と石垣遺構を撮影。画面右の盛り上がっている部分が弁天社跡で周囲は池跡、画面左に石垣遺構(形状から徳川段階の遺構との説)が残る。

鉢形城0327逸見曲輪弁天社跡.jpg

⑨深沢川。城の東側を削って流れている。

鉢形城1330深沢川.jpg

⑩外曲輪土塁。深沢川を渡った東側一帯が外曲輪で、土塁と堀をめぐらしている。ソメイヨシノも開花。

鉢形城1332外曲輪土塁.jpg

⑪帰りの東武東上線電車内に迷い込んだ小鳥(シジュウカラ?)。小川駅で駅員さんに救出される。

鉢形城1334東武東上線電車内小鳥.jpg

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松山城(武蔵) 2020.3.18 [埼玉県]

松山城(武蔵)は、埼玉県比企郡吉見町に所在、市野川の湾曲部に囲まれた丘陵の先端部(標高57.8m)に位置する。築城は関東地方が戦国時代に突入する15世紀後半と考えられており、16世紀に入ると、扇谷上杉氏と小田原北条氏との攻防、小田原北条氏と上杉謙信との攻防などの舞台として文献に頻繁に登場、小田原北条氏支配時代には上田氏が城主を務めた。徳川家康の関東移封後は一門の松平氏が城主となったが1601年に廃城となり、現在は、比企城館跡群の一つとして国史跡となっている。

2020年3月18日(水)、都内から東武東上線で東松山駅10時24分着。駅から東方向に2kmほど歩くと城山が見えてくる。

①市野川の手前から城山西面を撮影。画面左方向に進むと吉見百穴(ひゃくあな)がある。ここには吉見町埋蔵文化財センターがあり、松山城跡のパンフレットを入手できるはずだったが、感染症予防対応で閉館中。隣の「百穴発掘の家」の人に話したところ、ありがたいことに2種類のパンフレット(コート紙版に掲載されている案内図=縄張図はわかりやすい)をいただいた。

武蔵松山城102全景.jpg

②岩室(いわむろ)観音堂からの伝搦手入口。吉見百穴を見学した後、城山北西麓の岩室観音堂へ。この奥が搦手口と伝わるが、現在は通行禁止となっている。このあたりは、吉見百穴と同じ地質(凝灰質砂岩)のようで崖となっている。

武蔵松山城104岩室観音堂.jpg

③現在の登城口(11時30分頃)。現在の登城口は、城山南東麓にある。急な坂道を登って行くと5分程度で頂上の本曲輪に達する。

武蔵松山城107登り口.jpg

④本曲輪。曲輪内と通路は概ね下草が刈り取られており歩きやすい。

武蔵松山城113本曲輪北西部.jpg

⑤堀底を歩いて東側の二ノ曲輪へ。二ノ曲輪から本曲輪との間の空堀を撮影。二ノ曲輪は本郭側にコの字状(画面はその南半分)を描いており、本来なら本曲輪の突出部(物見櫓跡)が見えるはずだが、堀に藪が生い茂っているため見えない。

武蔵松山城116二ノ曲輪から本曲輪空堀.jpg

⑥二ノ曲輪から東側の三ノ曲輪への堀底の通路を撮影。二ノ曲輪と三ノ曲輪の間の堀にも藪が生い茂っている。

武蔵松山城120二ノ曲輪と三ノ曲輪空堀.jpg

⑦三ノ曲輪から南の馬出を撮影。画面中央の土橋を渡って馬出へ。馬出を帯曲輪にそって左折し、三ノ曲輪とその東の曲輪4の間の堀底へ。

武蔵松山城124三ノ曲輪から南馬出.jpg

⑧三ノ曲輪と曲輪4の間の堀。ここは下草が刈り取られており歩きやすい。堀底を北西に進むと惣曲輪(居館跡?)が広がっている。大手口は惣曲輪の東側だったのだろうか。

武蔵松山城134三ノ曲輪と曲輪4空堀北側.jpg

⑨惣曲輪を通り抜け、南の本曲輪方向へ進んで行くと竪堀のような崖がある。案内図を見ると伝搦手口と判明。岩室観音堂の屋根が見えるが、急斜面なので通路だったのかやや疑問。

武蔵松山城135伝搦手口.jpg

さらに南へ進み「兵糧倉」曲輪を経て、本曲輪へ戻り、登城口から12時30分頃に退城。1時間ほどの一周コースだったが、このほかにも各所に曲輪が散在しており、散策ルートは色々ありそうだ。

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小倉(おぐら)城 2020.3.12 [埼玉県]

関東地方独自の石垣で有名な小倉(おぐら)城は、埼玉県比企郡ときがわ町に所在、槻(つき)川の屈曲部に張り出す丘陵上(標高137m)に戦国時代に築城され、現在は比企城館跡群の一つとして国指定史跡となっている。戦国時代の文献には登場しないため、築城者・城主・廃城時期は不明だが、発掘調査の遺物からは15世紀末から16世紀後半に機能していたと判断され、築城者は山内上杉氏または扇谷上杉氏と推測、小田原北条氏支配下では支城として機能していたと考えられている。

2020年3月12日(木)、都内から東武東上線で武蔵嵐山駅に10時54分着。「せせらぎバスセンター行」バス(イーグルバス)で駅西口11時7分発→田黒11時17分着(平日は1時間に1本の運行、乗客は私だけ)。北西方向に道なりに1kmほど歩き、左折して舗装林道(小倉城跡入口の表示あり)へ入り、さらに城跡入口表示で右折して林間の山道へ。「ホトケハラ平場」で西の物見山からのハイキングコースに合流。北東方向に登って行くと郭4の虎口に達する(11時50分頃)。

①郭4の虎口。ここから郭4へ入る。郭4から北東へ進み、大堀切を横切り、郭2へ。

小倉城104郭4虎口.jpg

②郭4と郭2の間の大堀切を郭2側から撮影。郭2の樹木は伐採作業中だった(景観整備の一環か?)。

小倉城113郭2より郭4との堀切.jpg

郭2から北東に進み郭1の南虎口へ。

③郭1南土塁内側。発掘調査により、郭1の南虎口(画面右端)から東虎口にかけての土塁内側に雛壇状の石積(3段)が見つかったが埋め戻されている。

小倉城119郭1南土塁.jpg

④郭1から東方向(槻川・都幾川の下流方向)の眺望。東方向には菅谷館(城)、松山城がある。

小倉城132郭1から北東方向眺望.jpg

⑤郭1の北側にある枡形虎口。郭1の北虎口から下って行くと、岩盤を掘削して右に折れる枡形虎口がある。

小倉城126郭1北側枡形虎口.jpg

⑥郭1の東虎口を外側から撮影。南脇(画面左)に石積がわずかに見える。郭1の南・東・北虎口には石積が用いられていたようだ。

小倉城135郭1東虎口.jpg

⑦郭1と郭3の間の堀切。郭1東虎口を出た所にある平場と郭3の間の堀切で、往時は木橋が架けられていたとされる。堀切には岩盤が露出しており、掘削した石材は石垣に用いたのだろうか(地産地消)。

小倉城137郭1と郭3の間の堀切.jpg

⑧郭3の東側石垣(白く写っているのは土嚢)。城の南東側に突き出ている郭3の東・南・西面の切岸に板状の結晶片岩系石材を積んだ石垣がめぐらされている。郭3の周囲は急斜面上の小道なので滑落リスクに気をつけながら石垣を見て回る。

小倉城148郭3東側石垣.jpg

⑨大福寺平場。郭3をめぐった後、城山の東麓への急傾斜道を下る(登る場合はきつい)と大福寺横にでる。このあたりは大福寺平場と呼ばれており、地下には戦国期の遺構面があるとのこと。手前には横堀跡がある。駐車場があるので、ここに車を止めて、登城するルートになっている。

小倉城163大福寺.jpg

小倉城は、樹木伐採や説明板設置など環境整備されており見て回りやすい(郭3の外周のみ滑落注意が必要)。滞在時間1時間ほどで12時50分頃、退城。イーグルバスで田黒13時25分発→武蔵嵐山駅西口13時38分着(帰りも乗客は私だけ)、武蔵嵐山駅13時59分発で帰路についた。なお、郭名称などは、ときがわ町ホームページ「小倉城跡パンフレット」による。


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川越城 2018.2.18 [埼玉県]

川越城は、明治維新後に建物・土塁(石垣は使用していない)・堀のほとんどが撤去され、城跡の景観はほぼゼロだが、本丸御殿の一部が残っていることから、たぶん日本100名城に選出されたものと思われる。川越には、JR川越線・西武新宿線・東武東上線の三線別に駅があるが、2018年2月18日(日)に降り立ったのは西武新宿線の本川越駅。蔵造りの町並側ではなく、東の仙波東照宮方向へ歩いて行く。

①20分程度歩くと仙波東照宮に到着。入口の随身門を撮影。この奥に、石鳥居、石段を登った小山の上に拝殿・本殿等がある。これらの建物は1640年に再建されたもので重要文化財に指定されている。日本三大東照宮の一つ。

川越城001仙波東照宮.jpg

②仙波東照宮の隣の喜多院へ。喜多院には、1638年寛永の川越大火後の復興の際、江戸城から移築した客殿(徳川家光誕生の間がある)・書院(春日局化粧の間がある)が残っている(重要文化財)。客殿を回廊から撮影(内部は撮影禁止)。杮葺(こけらぶき)の建物。

川越城007喜多院客殿.jpg

③喜多院から北に10分程度歩くと本丸西南隅の富士見櫓台に着く。富士見櫓台南西面を撮影。人工的に盛り土したものなのだろうか。周囲にはかつて堀が巡っていた。近年見つかった図面によると、富士見櫓は2階櫓で、周囲に土塀を巡らしていたらしい(外から見上げると3階に見えた)。

川越城009富士見櫓跡.jpg

④次は本丸御殿。幕末の1848年に建てられたもので、残っているのは、玄関と玄関に続く広間部分、移築された家老詰所部分である。県指定文化財にとどまっているのは、明治維新後、県庁・煙草工場・武道場などに転用された後、1967年に修理・復元されたためだろうか。

川越城015本丸御殿.jpg

⑤本丸御殿の北側に川越市立博物館があり、そこにある江戸時代の川越復元模型を撮影。中央が本丸部分。

川越城016市立博物館内模型.jpg

⑥中ノ門堀跡。本丸の西側に奇跡的に残っていて、近年、整備されたもの。

川越城018中ノ門堀跡.jpg

城跡の痕跡は3カ所だけで物足りないが、喜多院や仙波東照宮を含めると江戸情緒も感じられるのでは。


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杉山城 2018.1.2 [埼玉県]

埼玉県の嵐山町(らんざんまち)にある杉山城は、土造りの城だが、極めて巧妙な防御構造(縄張)であることから、戦国期城郭の最高傑作の一つといわれている。城の機能した時期は、その高度な縄張構造からは16世紀後半(北条氏時期)と推測されていたが、発掘調査結果および古文書発見からは15世紀末から16世紀初頭(山内上杉氏時期)とされ、そのギャップは「杉山城問題」といわれた。現状、城内の樹木はほぼ伐採され、また、維持管理も丁寧にされており、土造りの城めぐりには絶好の城である。2018年1月2日、東武東上線の武蔵嵐山駅に11時31分下車、東口から北に向けて3km程度を歩いて城跡のある丘をめざす。12時頃、大手口前の出郭に到着。案内板とパンフレットボックスが設置されている。

①案内板前から大手口方向を撮影。

杉山城104出郭.jpg

②大手口。左折する狭い通路から外郭に入る。

杉山城105大手口.jpg

③外郭から馬出郭(画面左)を通って南三の郭(画面右)へ。往時は外郭・馬出郭間には木橋が架かっていたのかも。

杉山城115出郭から馬出郭へ.jpg

④南三の郭に入って、馬出郭とそれに続く土橋を撮影。

杉山城118南三の郭から馬出郭.jpg

⑤南三の郭から南二の郭へ進む。南二の郭南の食い違い虎口を撮影。

杉山城122南三の郭から二の郭へ虎口.jpg

⑥南二の郭から本郭へ進むルートは現在、本郭東の横堀沿いの帯郭から本郭東虎口に至るルートである。そのルートを撮影(本郭側から撮影したのが⑧)。

杉山城135南二の郭から本郭へ.jpg

⑦往時は、南二の郭から西の井戸郭へ進み、木橋(現在はない)で本郭南虎口へ進むルートであった。本郭から井戸郭を撮影。往時は、手前の堀に木橋が架けられていた。なお、井戸跡は井戸郭の西下にある。

杉山城143本郭より井戸郭.jpg

⑧本郭の東側切岸、横堀を撮影。南二の郭、外郭が遠望できる絶景スポット。

杉山城138本郭から東南側切岸.jpg

⑨本郭から降りて、北二の郭へ。このあたりは樹木が茂っている。北二の郭の北虎口を内側から撮影。

杉山城153北二の郭北虎口.jpg

このあと、北三の郭、搦め手口まで北上したのち、本郭へ引き返し、東二の郭・三の郭へ下る。

⑩東三の郭から東二の郭・本郭を見上げて撮影。

杉山城166東三の郭から見上げる.jpg

大手口方向へ戻り13時20分頃退城、武蔵嵐山駅まで歩き14時25分発の東武東上線で帰路についた。なお、続日本100名城スタンプは駅と杉山城の途中にある嵐山町役場玄関ホールに設置されている。


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