三河エリアの吉田城と岡崎城を訪れたのは2021年3月23日(火)のこと。東京発10時33分のひかり639号で豊橋11時53分着、豊鉄市内線に乗り市役所前で下車し吉田城へ。なお、豊橋という地名は、明治維新後に新政府の命令を受けて吉田藩から豊橋藩に改称したもの(伊予国吉田藩と同名のため)。吉田城は、豊川と朝倉川の合流点の南の段丘に、1505年に牧野古白が築城。松平氏・今川氏の争奪を経て、1564年に徳川家康の支配地となったのち、1590年、家康の関東移封後に城主となった豊臣系大名の池田輝政が拡張・改造した。関ヶ原戦後は譜代大名が城主を務め、明治維新を迎え廃城となった。その後、本丸・二の丸・三の丸跡には、歩兵第18聯隊の兵営が置かれ(1885~1945年)、戦後は豊橋公園・美術博物館・市役所・中学校等となった。現在、城跡は埋蔵文化財包蔵地で豊橋市による発掘調査が行われているが、史跡指定はされていない。
①三の丸土塁遺構。豊橋公園の表示がある門柱は旧陸軍時代のもの。ここに三の丸門があり、土塁前には三ノ丸堀があった。
三の丸から北方向の二の丸、本丸へ進む。
②本丸南多門跡。本丸の南側入口で、土橋を渡ると左手に千貫櫓、前方に櫓門、右手に多門櫓で囲まれた枡形虎口となる。
③本丸南多門跡東石垣。最近、堀底の発掘調査が行われ、堀底から12.6mの高石垣であることが確認された。石材の大半は花崗岩で、池田輝政期あるいは普請の得意な松平忠利の在城時期(1612~1632年)に築かれたと考えられている。
④本丸辰巳櫓台。本丸南東隅の辰巳櫓台の堀底付近は腰巻石垣で上部は土塁となっている。本丸の周囲は、南・東・北の虎口周辺と北西隅の鉄櫓台が石垣造りで他は土塁造りとなっている。
⑤本丸裏門跡。本丸の東側入口で、土橋を渡り右に折れ曲がる枡形虎口。
⑥本丸裏門跡北石垣。こちらは、最近の調査により池田輝政期のチャート主体の野面乱積み石垣の遺構であることが確認された(中央部分は江戸時代の修復箇所)。
本丸内へ入る。本丸内には、1622年に松平忠利期に建てられた本丸御殿(将軍上洛時の宿舎、城主は二の丸御殿を使用)があった(1707年地震で倒壊)。
⑦本丸北多門跡。本丸の北側入口で、画面左の石段を上がると、左手に櫓門、前方と右手は多門櫓で囲まれた枡形虎口となる。朝ドラ「エール」の撮影場所として有名。
北多門跡前の石段を降りて、豊川に面した腰曲輪へ。
⑧本丸鉄櫓台石垣。本丸北西隅の鉄(くろがね)櫓台石垣で城内最高の高さ12.7m、野面積みで隅角部の算木積みも未完成、緩やかな傾斜のため池田輝政期のものとされ、輝政期には天守が建っていた可能性もある。
なお、現在の建物は1954年に鉄筋コンクリート造りで模擬鉄櫓(古写真・図面はないため絵図を参考にしたと思われる)として建設された(1954年は富山城・岸和田城の模擬天守も建設された戦後の築城ブーム開始の年)。
⑨腰曲輪川手櫓台石垣。腰曲輪から豊川沿いの遊歩道に降りて撮影。驚くべきことに川手櫓跡は昼休みの喫煙場所と化しているようだ。
⑩水門跡。豊川沿いの遊歩道を吉田大橋まで進む途中に豊川から城内に物資を運び入れる船着場だった水門跡がある。川船が入っていたとすれば、現在はかなり土砂が堆積しているようだ。
⑪吉田大橋からの景観。川手櫓・北多門等が写っている明治初年の古写真(鉄櫓は既に失われていた)と同様の構図。樹木が茂りすぎの感あり。
豊鉄市内線で駅前まで戻り、名鉄名古屋本線快速特急で岡崎城へ向かう(豊橋13時2分発→東岡崎13時21分着)。なお、本記事の解説内容は、おもに豊橋市美術博物館ウェブサイト「郷土の歴史資料」他、豊橋市図書館ウェブサイト「とよはしアーカイブ」によりました。