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小牧山城 2023.3.8 [愛知県]

数年間待っていた葛飾応為の「夜桜美人図」が展示(2023221日~42日)されている小牧市のメナード美術館を3月上旬に訪れる。絵を細かく観察すると筆の握り手の描き方が気になる。指を美しく見せるためなのか、それとも応為の握り癖を反映したものなのだろうか。
美術館の展示を見たあと、近くの小牧山城を訪れる。小牧山山頂(標高85.9m)にある小牧市歴史館が2023331日まで休館(主に戦国時代を扱う展示へとリニューアル)しているのは知っていたが、麓の復元土塁と頂上の主郭一帯が工事中で一部立入できないとは知らなかった。おそらく、大河ドラマ「どうする家康」も意識して改修工事を行っているものと思われる。
小牧山城(史跡名称は「小牧山」)は、信長が1563年に清洲から居城を移して築城したが、1567年には岐阜に移り廃城となった。その後、1584年の秀吉と家康の小牧・長久手の戦いの際に家康の本陣として改修された。こうして、小牧山城跡は信長期と家康期の二つの時期の築城遺構が混在する城跡となった。
①南西入口の御幸橋口。家康の改修で築かれた枡形虎口。
小牧山城102御幸橋口.jpg
②入ったところの山麓東側一帯は、小牧中学校移転後に発掘調査が行われ、信長期に武家屋敷があったと考えられている(徳川期にも陣地として利用)。
小牧山城104曲輪402.jpg
れきしるこまき(小牧山城史跡情報館)に立ち寄って、大手道、主郭の最新の発掘調査情報などを得る。
③山麓南の復元土塁。家康は小牧山の周囲に土塁と空堀を築いた。このあたりは市役所旧本庁舎解体撤去後に史跡整備工事が行われ、2017年に土塁・空堀・切岸が推定復元された。さらに今回、20233月末まで遊歩道設置など追加整備工事が行われている。
小牧山城113復元土塁.jpg
④大手道。しばらく北へ直進し、中腹で右折(東進)、その後、ジグザグ道を登り主郭に至るはずだったが、ジグザグ道の最終コーナー以降は工事中で20233月末まで立入規制している。
小牧山城118大手道.jpg
そこで、北側の迂回路経由で主郭前にたどり着く。
⑤主郭前の大手道を主郭前から撮影。石垣復元などの整備工事は、ここの通路については3月末までのようだが、今後もしばらく他のエリアで順次整備工事が行われるようだ。
小牧山城137大手道.jpg
⑥主郭大手入口。今回の工事で、階段下左の花崗岩上に設置されていた徳川義親像は小牧市歴史館内に移設された。この花崗岩は信長の築城時に配置されたものと考えられている。なお、信長期に主郭の周囲に築かれた石垣は主に小牧山産のチャートが使用されている。
小牧山城139主郭入口.jpg
⑦主郭北西面石垣。石垣のサイズは比較的大きそうだが、高さはかなり低いようだ。
小牧山城133主郭北側2.jpg
⑧山腹西側の虎口。主郭と西側曲輪との通路のようだ。発掘調査により織田期の虎口とされた。空堀・土橋・虎口が分かるように整備されている。
小牧山城128虎口.jpg
⑨山麓北側の搦手口付近の徳川期土塁。この近くに土塁断面展示施設がある。
小牧山城146北土塁.jpg
発掘調査によって主郭周囲には2段~3段の石垣が築かれたことが判明しているが、主郭周囲の石垣復元整備工事が完成するのは数年先になりそうだ。


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岡崎城 2021.3.23 [愛知県]

豊橋から名鉄名古屋本線で東岡崎駅に着いたのは2021年3月21日(火)1321分。駅北口から北西方向の岡崎城を目指す。岡崎城は、乙川(菅生川)が矢作川に合流する手前の北岸の河岸段丘上(標高約24mの龍頭(りゅうとう)山)に、15世紀半ば頃に西郷頼嗣(青海入道)が築城。1531年から松平氏の本拠地となり、浜松への本拠地移転後も三河支配の拠点としていたが、1590年の徳川家康の関東移封後に豊臣系大名の田中吉政が入り拡張・改造を行った。関ヶ原戦後は譜代大名が城主を務め、明治維新後に廃城となり建物は取り壊された。その後、1875年に本丸・二の丸跡は岡崎公園となり、1962年には岡崎市指定史跡となり、近年、継続的に発掘調査が行われている。

①乙川(菅生川)対岸からの景観。画面の土手下の石垣は、江戸時代初期に防御・治水のため築かれた菅生川端石垣で、発掘調査により全長400m、高さ5.4mに及ぶことが確認された。

岡崎城101乙川対岸より.jpg

なお、325日からの桜まつりに向け河川敷では露店(2020年は中止、2021年は制限付き実施)の準備中。橋を渡り川沿いの道を進んで、岡崎公園南側の龍城(たつき)堀を渡り、本丸下段の風呂谷曲輪へ。

②本丸南面石垣。画面右側の脇多門櫓台は野面積みで隅角部は算木積みが未完成(田中吉政期のものか?)、左側の月見櫓台は割石を用いた打込接で隅角部はきれいな算木積み(江戸時代以降のもの)。

岡崎城110本丸月見櫓台・脇多門櫓台.jpg

ここから右へ進むと風呂谷曲輪から本丸南側虎口の風呂谷門跡へ上がる石段となる。

③本丸風呂谷門跡への石段。趣のある野面積み石垣が続いている。田中吉政期のものだろうか。

岡崎城111本丸風呂谷門跡.jpg

左に戻って、本丸西側虎口の埋門跡へ。

④本丸埋門跡。面は野面積みだが、隅角部はきれいな算木積み。

岡崎城116本丸埋門跡.jpg

⑤天守南面。天守台石垣は、野面積みで隅角部は算木積みが未完成なことから、田中吉政期のものと考えられている。画面右側は龍城(たつき)神社の社殿。

岡崎城118天守.jpg

天守建物は、田中吉政による初代は地震で倒壊、1617年に再建されたものは明治維新後に取り壊されたが、1959年に古写真を基に鉄筋コンクリート造りで井戸櫓・付櫓とともに建設された。天守最上階に廻縁・高欄を付け加えたりしているため古写真の外観とは少し異なっている。埋門跡から本丸を出て、本丸西側の坂谷(さかたに)曲輪の坂谷門跡へ。

⑥坂谷門跡。西の白山曲輪から丸馬出→土橋→枡形虎口と続く厳重な関門だったが、現在は枡形虎口の櫓門跡の石垣が残っている。

岡崎城125坂谷門跡.jpg

坂谷曲輪から本丸北側を守る持仏堂曲輪の北側(二の丸)へ回り込む。

⑦二の丸から持仏堂曲輪と青海堀を撮影。持仏堂曲輪の周囲の空堀は初代築城主の法名を取って青海堀といわれ、土造りで中世城館の雰囲気にあふれている。

岡崎城134持仏堂曲輪北堀.jpg

⑧持仏堂曲輪太鼓門跡。二の丸から持仏堂曲輪への入口。

岡崎城135持仏堂曲輪太鼓門跡.jpg

持仏堂曲輪と本丸天守北側の間の廊下橋跡へ。

⑨廊下橋跡から天守北面を撮影。天守台石垣の鏡石が見所。

岡崎城138天守北面.jpg

⑩持仏堂曲輪と本丸の間の清海堀。本丸側は土造り、持仏堂曲輪側は石垣造りの空堀。石垣上のカーブする細長い通路の先に本丸東側虎口の大手口がある。

岡崎城141清海堀.jpg

⑪本丸大手口。切石を用いた切込接の本丸御門石垣(枡形虎口の一部)が残る。

岡崎城147本丸大手口.jpg

本丸へは入らず、南東方向の隠居曲輪→菅生曲輪へ。菅生曲輪は武家屋敷地で、現在は多目的広場となっている。⑫菅生曲輪から二の丸・東曲輪南東面を撮影。画面左に二の丸南東面の石垣が残る。右の櫓は東曲輪東隅櫓で、発掘調査のうえ在来工法による木造で2010年に建設されたもの。東隅櫓東下の切通しに堀底の石垣遺構を見ることができる。

岡崎城155二の丸・東曲輪.jpg

おもな遺構をめぐったので東岡崎駅に引き返し、1417分発の快速特急で豊橋に戻り帰途につく。なお、本記事の解説内容は、岡崎市の「岡崎城跡整備基本計画」、「岡崎城跡石垣めぐり」などによりました。

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吉田城 2021.3.23 [愛知県]

三河エリアの吉田城と岡崎城を訪れたのは2021323日(火)のこと。東京発1033分のひかり639号で豊橋1153分着、豊鉄市内線に乗り市役所前で下車し吉田城へ。なお、豊橋という地名は、明治維新後に新政府の命令を受けて吉田藩から豊橋藩に改称したもの(伊予国吉田藩と同名のため)。吉田城は、豊川と朝倉川の合流点の南の段丘に、1505年に牧野古白が築城。松平氏・今川氏の争奪を経て、1564年に徳川家康の支配地となったのち、1590年、家康の関東移封後に城主となった豊臣系大名の池田輝政が拡張・改造した。関ヶ原戦後は譜代大名が城主を務め、明治維新を迎え廃城となった。その後、本丸・二の丸・三の丸跡には、歩兵第18聯隊の兵営が置かれ(18851945年)、戦後は豊橋公園・美術博物館・市役所・中学校等となった。現在、城跡は埋蔵文化財包蔵地で豊橋市による発掘調査が行われているが、史跡指定はされていない。

①三の丸土塁遺構。豊橋公園の表示がある門柱は旧陸軍時代のもの。ここに三の丸門があり、土塁前には三ノ丸堀があった。

吉田城102三の丸土塁.jpg

三の丸から北方向の二の丸、本丸へ進む。

②本丸南多門跡。本丸の南側入口で、土橋を渡ると左手に千貫櫓、前方に櫓門、右手に多門櫓で囲まれた枡形虎口となる。

吉田城107本丸南多門跡.jpg

③本丸南多門跡東石垣。最近、堀底の発掘調査が行われ、堀底から12.6mの高石垣であることが確認された。石材の大半は花崗岩で、池田輝政期あるいは普請の得意な松平忠利の在城時期(16121632年)に築かれたと考えられている。

吉田城117本丸南多門横.jpg

④本丸辰巳櫓台。本丸南東隅の辰巳櫓台の堀底付近は腰巻石垣で上部は土塁となっている。本丸の周囲は、南・東・北の虎口周辺と北西隅の鉄櫓台が石垣造りで他は土塁造りとなっている。

吉田城118本丸辰巳櫓台.jpg

⑤本丸裏門跡。本丸の東側入口で、土橋を渡り右に折れ曲がる枡形虎口。

吉田城128本丸裏門跡.jpg

⑥本丸裏門跡北石垣。こちらは、最近の調査により池田輝政期のチャート主体の野面乱積み石垣の遺構であることが確認された(中央部分は江戸時代の修復箇所)。

吉田城125本丸裏門跡.jpg

本丸内へ入る。本丸内には、1622年に松平忠利期に建てられた本丸御殿(将軍上洛時の宿舎、城主は二の丸御殿を使用)があった(1707年地震で倒壊)。

⑦本丸北多門跡。本丸の北側入口で、画面左の石段を上がると、左手に櫓門、前方と右手は多門櫓で囲まれた枡形虎口となる。朝ドラ「エール」の撮影場所として有名。

吉田城135本丸北多門跡.jpg

北多門跡前の石段を降りて、豊川に面した腰曲輪へ。

⑧本丸鉄櫓台石垣。本丸北西隅の鉄(くろがね)櫓台石垣で城内最高の高さ12.7m、野面積みで隅角部の算木積みも未完成、緩やかな傾斜のため池田輝政期のものとされ、輝政期には天守が建っていた可能性もある。

吉田城138本丸鉄櫓台.jpg

なお、現在の建物は1954年に鉄筋コンクリート造りで模擬鉄櫓(古写真・図面はないため絵図を参考にしたと思われる)として建設された(1954年は富山城・岸和田城の模擬天守も建設された戦後の築城ブーム開始の年)。

⑨腰曲輪川手櫓台石垣。腰曲輪から豊川沿いの遊歩道に降りて撮影。驚くべきことに川手櫓跡は昼休みの喫煙場所と化しているようだ。

吉田城141脇曲輪川手櫓跡.jpg

⑩水門跡。豊川沿いの遊歩道を吉田大橋まで進む途中に豊川から城内に物資を運び入れる船着場だった水門跡がある。川船が入っていたとすれば、現在はかなり土砂が堆積しているようだ。

吉田城142水門跡.jpg

⑪吉田大橋からの景観。川手櫓・北多門等が写っている明治初年の古写真(鉄櫓は既に失われていた)と同様の構図。樹木が茂りすぎの感あり。

吉田城144吉田大橋より.jpg

豊鉄市内線で駅前まで戻り、名鉄名古屋本線快速特急で岡崎城へ向かう(豊橋132分発→東岡崎1321分着)。なお、本記事の解説内容は、おもに豊橋市美術博物館ウェブサイト「郷土の歴史資料」他、豊橋市図書館ウェブサイト「とよはしアーカイブ」によりました。

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