加納城は、長良川扇状地の南東末端に位置し、関ヶ原戦後に徳川家康の指示で1602年から天下普請として戦国時代の城館跡に築かれた平城です。岐阜公園歴史博物館前から岐阜バスで20分ほど南下し城南通りバス停で下車、東方向へしばらく進むと、加納公園の一部になっている加納城本丸西堀跡に到着します。本丸西面に近寄ってみると石垣は下半分以下で上部は土塁の状態(腰巻石垣?)、築城当初からだったのか、それとも上部の石垣が失われたのだろうか。
本丸北西隅。巨石による荒削りの算木積みですが、下部だけなのは不自然。かつては上部にも石垣があったのでは?この北西隅は天守台と呼ばれていますが、天守は建てられませんでした。

本丸の周囲を反時計回りに廻って行きます。
本丸南西隅。こちらはやや小振りの石による算木積みで色合いも異なっていますが、加納城の石材はほぼ全てチャートとのこと。

本丸南面にはかつては南側の大藪曲輪から木橋を渡って入る内枡形虎口がありましたが完全に消滅し、近代にできた入口となっています。
本丸南東隅。このあたりから石垣が最上部近くまで残っています。

本丸東外枡形南東隅。加納城最大の見所、本丸の東に突き出る巨大な外枡形虎口。枡形空間も広いのですが、その南側・東側の土塁上に「武者溜り」という土塀に囲まれた曲輪が設けられていました。これは大変珍しいのでは。

本丸東外枡形北東隅。石垣が一部崩落して失われているようです。

本丸東外枡形入口。現在は入口が閉鎖されていますが、本来は大手口で北東側の二の丸から木橋を渡り、高麗門を入って右折して櫓門を通る構造でした。周囲の堀跡からは障子堀跡が確認されました。

あとで本丸北入口から入って枡形内側から見てみます。右側が高麗門跡、中央が櫓門跡ですが、石垣は失われています(発掘調査により礎石や石垣の基礎部分は確認されました)。

本丸北東隅。石垣の残存状態は最も良さそうです。

本丸北面。北面の石垣は途中から三分の一ほどになっています。こうして見ると本丸西側の石垣が低くなっているようです。

本丸北側の近代にできた入口(埋門はあったようです)から本丸内に入ります。
本丸内側には石垣は見当たりません。子どもたちの遊び場になっているようです。

次に、加納小学校と岐阜地方気象台のあいだにある二の丸北石垣を見に行きます。
二の丸北石垣。思っていたより長い石垣が残っています。この左端(北東隅)に岐阜城の天守を移築したと伝わる三階櫓が建っていました。

[メモ]加納城跡は、岐阜城跡より早く1983年に国史跡に指定され、1988年度から岐阜市により発掘調査が行われました。発掘成果の概要は『加納城跡の発掘』(2010年岐阜市Web版)で知ることができました。また、『加納城下町地図』というパンフレットが信長居館発掘調査案内所にあり参考になります。