高山陣屋 2024.4.1 [岐阜県]
高山城跡から近道を下りて中橋を渡ると高山陣屋に到着します。表門前までは観光客で混雑していましたが、中に入ると意外に空いています。
①御役所玄関(1816年改築)。
屋根は、木を薄く割った板を重ねて葺いた板葺きで、「榑(くれ)葺き」というのだそうです。細かくいうと、大部分は「半榑熨斗(はんくれのし)葺き」、玄関庇部分は「杮(こけら)葺き」だそうです。寒冷地で雪や凍結に耐えられるように工夫したものなのでしょうか。
玄関から入り、脱いだ靴を持って内部を反時計回りに見学するコース(40分ほど)となっています。
②御役所。狭義の御役所(役人たちの執務空間)。
③復元された役宅(代官・郡代の居住空間)。居間の上は3階建ての物見になっています(階段は上がれません)。
④役宅の庭園越しに見る御蔵。この蔵は、高山城三之丸から移築されたもので、屋根は「石置き長榑(ながくれ)葺き」といい、御役所の屋根の板より長く厚い板を用いて釘を使わず石を置いているそうです。
⑤広間。御役所の西側は三間続きの大広間となっています。
最後に展示室に区切られている御蔵を見て廻ります。榑葺きについての詳しい説明もあります。
[メモ]1692年に飛騨国が幕府直轄領になると金森家の下屋敷のあった場所を、幕府が飛騨統治の拠点として整備したのが高山陣屋です。明治維新後、主要建物は行政機関の事務所として利用され、一部は撤去され庁舎が建てられましたが、1970~1996年の復元整備工事により江戸時代の姿がよみがえりました。高山陣屋は国史跡に指定されています。
高山城 2024.4.1 [岐阜県]
高山市街地に戻って、宮川の東側にある高山城跡を訪れます。高山城は、三木氏滅亡後の1586年に飛騨国に配置された金森長近が天神山城跡に1588年から築城を開始し1603年に完成したとされます。その後、1692年には飛騨国は幕府直轄地となり、城は1695年に完全に破却されました。城跡は岐阜県史跡となっています。
①城跡北端の三之丸堀(標高581m)。現在、三之丸跡には城山児童センターや神社があります。金森氏時代にここにあった米蔵は1695年に高山陣屋に移築され現存しています。
南方向に坂道を登り二之丸跡へ。
②城山公園となっている二之丸東側(標高616m)。二之丸は東西2箇所の平坦地にあり、東側には金森氏時代末期には庭樹院殿(藩主の母)屋敷がありました。
公園の裏手から10分ほど遊歩道を登ると、本丸東北腰曲輪に着きます。
③本丸東北腰曲輪入口。高山城は完全に破却されたため石垣遺構はほとんど残っていないのですが、ここでは矢穴痕のついた石垣遺構を見ることができます。
④本丸東北腰曲輪から見る本丸下段。かつてはこの法面に石垣が築かれていたようです(左側に少し残っています)。右の道は搦手口にあたります。
⑤本丸下段から見る本丸上段(標高686m)。石垣の一部が復元されています。本丸上段には平面一杯に本丸屋形が建てられていました。
⑥本丸上段南東隅の石垣遺構。良く残っています。土砂に埋もれていたのでしょうか。
⑦本丸大手口。本丸南側のジグザク道が大手口です。古絵図では門が3箇所あり連続枡形虎口になっていたようです。
城跡西側中腹の遊歩道を北方向へ進むと二之丸西側に至ります。
⑧二之丸西側。ここには二之丸屋形(藩主居所)がありました。現在は照蓮寺になっています。
ここから狭い坂道を西方向へ下って行くと宮川に架かる中橋に出ることができます。
[メモ]1692年に幕府直轄領になってから1695年に城が破却されるまで、加賀藩が城番を勤め詳細な平面図を残しており、そこから当時の様子を知ることができます(正は石川県立図書館ウェブサイト、写は高山図書館ウェブサイト)。
松倉城(飛騨) 2024.4.1 [岐阜県]
高山市街地の南西方向にある戦国時代末期の石垣造りの山城、松倉城跡(標高856m)を4月1日早朝に訪れます。麓の飛騨の里(標高637m)までは高山濃飛バスセンターから9時にバスが出るのですが、それより早く駅前からタクシーで山頂近くの松倉シンボル広場(標高794m)まで行きます。運転手さんからは、クマはまだ出ないと思うが、クマ除けの鐘や木をたたきなさいとのアドバイスをいただきました(クマ除け鈴は持参)。松倉シンボル広場から東方向に5分ほど遊歩道を登って行き、堀切を過ぎるとその先に三の丸石垣が見えてきます。
①三の丸南西隅石垣。上段の天端石は落とされているようですが良く残っています。巨石が使われていますが、この山から切り出された石材でしょうか。
②三の丸埋門跡。発掘調査により、この三の丸北西側では石塁と巨石を用いた埋門の壊された跡(破城の痕跡)が見つかりました(ブルーシートで覆われています)。背後の石垣は本丸外曲輪西面石垣です。
③三の丸南西隅櫓台跡。最初に見た石垣の上にあります。
④三の丸の南下の曲輪の虎口跡。発掘調査により、虎口が石材で埋められて塞がれた跡(破城の痕跡)が見つかりました。
本丸へ登ります。
⑤本丸外曲輪南東隅石垣。本丸の西面・南面直下の曲輪は本丸外曲輪と呼ばれており、石垣が良く残っています。
⑥本丸登り口。本丸の東側が登り口で、右が本丸、左が本丸外曲輪です。
⑦本丸虎口。巨石が使われています。本丸は内側も低い石塁で囲まれていますが、発掘調査では礎石は見つからなかったそうで天守のような建物はなかったようです。
⑧本丸から北東方向の眺望。気温が高いためか北アルプスの山々ははっきりとは見えませんでした。
本丸から下りて、東側の二の丸へ。
⑨二の丸旗立岩。二の丸南東隅に旗立岩と呼ばれる飛び出た岩があります。二の丸からは礎石が見つかっているので建物があったようです。
⑩二の丸東面石垣。二の丸の東端は大手口とされています。この先を北に下って行くと飛騨の里に至るようです(現在は通行できないようです)。
来た道を引き返し、松倉シンボル広場からは遊歩道ルートを20分ほど歩き飛騨の里まで下山、バスで高山濃飛バスセンターまで戻ります。
[メモ]松倉城は、飛騨国を制覇しつつあった三木(みつき)自綱(姉小路頼綱)が1579年に築城、本能寺の変の後、反秀吉陣営に与したため、1585年に秀吉配下の金森長近に攻められて落城、その後しばらくして廃城になったようです。現在残る石垣の遺構は、金森氏が三木氏の城を石垣造りに改造したものではないかと考えられています。現在は岐阜県史跡ですが、2019年から国指定史跡を目指して発掘調査が行われています。
松尾山城 2024.3.7 [岐阜県]
いつもは新幹線で通過するだけの関ヶ原ですが、3月7日は関ヶ原町の松尾山城跡を訪れます。名古屋駅から東海道本線に乗り、大垣駅乗換えで関ヶ原駅へ。駅前の観光交流館で「松尾山城散策マップ」を入手、レンタルサイクルで松尾山北麓に向かいます。ルートマップに沿って15分ほど自転車で行くと山麓駐車場に到着。
①登山口。このルートは東海道自然歩道となっておりきれいに整備されています。登山口の標高は100mほど、山頂は293mなので比高193mです。
②10分ほど登ると標高189m付近の分岐点へ。ここからは西方向へ尾根沿いの道を歩きます。
③15分ほど尾根沿いの道を登って行くと「東の曲輪」北斜面下に到達。
④さらに登って行き「主郭」北東斜面下へ。右(西)へ行くのがかつての登城路と思われますが、これは帰り道に取っておき、行きは自然歩道に沿って真っ直ぐに主郭へ登ります。
⑤主郭北東隅からの眺望。関ヶ原合戦の主戦場はよく見えますが、新幹線は麓に近すぎて木立越しにかすかに見える程度なので、新幹線A席から松尾山頂が見るかどうか微妙。
⑥主郭の土塁。主郭自体は狭いので、1600年9月15日朝は小早川秀秋軍の首脳陣しかいなかったようです。
⑦主郭南の枡形虎口。枡形内を左折する構造です。
⑧虎口脇の土塁から虎口下を見おろすと斜めの坂道が虎口に続いており、坂虎口と枡形虎口の組み合わせとなっています。坂道を下った先は「馬出状の曲輪」です。
⑨馬出状の曲輪の南面の虎口と土橋。ここからさらに南に下って行くのが自然歩道ルートですが、引き返して主郭西斜面下へ行きます。
⑩主郭西斜面下の空堀と西の曲輪。空堀は主郭と西の曲輪の間の谷間に位置し、地図で見るとこの南方向は谷川になっています。西の曲輪は、登ってみると長方形の平坦地となっています。
⑪空堀の北側には、喰違土塁が設置されています。
⑫主郭の北斜面には竪堀があります。かなり埋まっているようです。
主郭北斜面下を通って自然歩道に戻り下山します。
[メモ]「松尾山城散策マップ」によると、城は、1570年に近江の浅井長政が境目の城として利用、その後、織田方の城となったのち1579年に廃城となるも、1600年の関ヶ原合戦に先立ち石田三成の命により大垣城主の伊藤盛正が大改修したものが現在残る遺構と考えられています。合戦前日に伊藤盛正を追い出して入ったのが小早川秀秋です。小早川秀秋軍15,000人という通説は旧陸軍参謀本部編纂データによるもので「100石✕3人」で算出したようですが、前提の石高が正確ではないので、実際には9,000~8,000人とされます(本郷和人『戦国武将の明暗』2015年)。それにしても山上にそれほどの人数を収容するのは難しそうなので多くは麓で待機していたのではと思います。
美濃金山城(2) 2024.1.30 [岐阜県]
美濃金山城跡の本丸南東斜面を進みます。
①発掘調査によって掘り出された本丸南東斜面石垣。表面が比較的きれいに整えられているようです。
②本丸南東端の枡形虎口。枡形内を左折する構造です。
かつては枡形を建物の穴蔵部分と見なして、北側にあったと想定される天守に連結する小天守があったと考えられていました(『史蹟美濃金山城址』(1973年)、戦国山城ミュージアム展示の復元ジオラマ)が、現在の復元イメージは可児市観光交流館に展示されている可児工業高校建築工学科制作の主郭復元ジオラマのようになっています。
③本丸東端の天守があったと想定されるエリア。
南側石垣下に四つの礎石があり、建物の張出部分を支える礎石(懸け造りの礎石)と考えられています(可児工業高校の主郭復元ジオラマのイメージ)。天守については、主郭発掘調査報告書(2021年3月)によると、「内面方向に面を向けた石塁が検出され、半地下式の天守台であろうと見られたのであるが遺構面からは天守に伴う礎石や柱穴が検出されず、天守の存在を決定付けることは出来なかった。」とまとめられています。
④本丸西方向。川原石を礎石とする建物跡が確認されおり、御殿跡と考えられています。
⑤本丸西端からの眺望。蛇行している木曽川の流れが見えます。
本丸から出て東側の東腰曲輪へ。
⑥東腰曲輪の枡形遺構。井戸跡と伝わる本丸東石垣下を発掘、堆積物を取り除くと枡形の遺構が検出されました。雨水をためる集水枡のような用途と考えられています。現在は埋め戻されて地表面に石列を組んでいるようです。
下山は、「搦手道」と呼ばれている急登の遊歩道を下り、途中、左折して緩やかな坂道を下って米蔵跡へ至るルートです。
⑦搦手道。急登ですがきれいに整備されています。左折した緩やかな坂道もきれいに整備されており、しばらく歩くと米蔵跡の芝生ひろばに到着(15分くらいで下山)。
⑧米蔵跡北面石垣。石垣は美濃金山城が機能していた時期のものと考えられています。米蔵跡というのは、江戸時代に年貢米を貯蔵する米蔵があったと伝えられているためです。近代には製氷池として使われていたそうです。
このあと、可児市観光交流館で休憩、帰りのバス(城戸口バス停の位置は行きと帰りで通りが異なっています)を待って帰途につきました。
美濃金山城(1) 2024.1.30 [岐阜県]
木曽川中流域の左岸、可児市兼山の古城山(標高276m)に築かれた美濃金山(かねやま)城跡を1月30日に訪れました。美濃金山城は森忠政城主時期(1584~1600年)に天守を持つ織豊系城郭に改造されたと考えられており、忠政の海津城(松代城)転封後、犬山城主の支配下となり1601年に破却(破城)され、城内の諸施設は犬山城に移築(金山越)されたと伝わっています。2006年度から発掘調査が行われており、2013年に国史跡に指定されました。
名古屋駅から名鉄犬山線・広見線に乗り明智駅へ、明智駅からYAOバスで城戸口バス停下車、可児市戦国山城ミュージアムへ向かいます。
①戦国山城ミュージアムの北面(標高約100m)。元々は1885年に兼山小学校の校舎として建てられたもので、兼山歴史民俗史料館を経て現在に至っています。北面は三階、南面(玄関)は二階という懸け造りの構造になっています。ここで、見どころ・ルートを確認、香川元太郎さんの復元イラストのクリアファイルなどを購入し城跡へ向かいます。
城戸坂の歩道を南方向(現在の兼山小学校へ向かう通学路らしい)へ10分程度歩くと「古城山登山口」の表示(標高約140m)があり、そこから急登を10分ほど登ると出丸(標高約226m)に到着します。
②出丸。城の西端に位置し、南面に石垣遺構が残っています。現在、曲輪内は駐車場などになっています。
この次は、舗装道路を歩いて城の東端の大堀切りを見に行きます。
③大堀切り。舗装道路が造成されたため旧状は不明ながら、城の南東端の曲輪「左近屋敷」に繋がる尾根を断ち切ったものです。
折り返して本丸への登城路に戻ります。登城路の右側が二の丸南斜面、左側が三の丸南斜面になりますが、上部には石積み、下部には転落石を観察することができます。少し登ると三の丸門跡に到着。
④三の丸門跡。礎石が残っています。この先の左側(西側)が三の丸。
⑤門跡の右側には、残存状態の良い二の丸西面石垣があります。隅角部や天端部は崩されています。
⑥三の丸の北面に岩盤を削って造られた水の手への虎口跡。
⑦三の丸の北方向の一段上の三の丸北曲輪から本丸北西面を撮影。三段の石垣(最上段は見えにくい)を観察することができます。下のほうには転落石が散乱しています。
南側に戻って二の丸へ。二の丸から上段の南腰曲輪へは二つの登城ルートがあります。一つは南に張り出した二の丸を東方向へ進み、南腰曲輪東斜面石垣に沿って北進する間道ルート。
⑧途中にある南腰曲輪東斜面石垣。腰巻石垣のようです。
もう一つは二の丸手前の坂を北進し枡形虎口から入る大手ルート。
⑨大手枡形虎口。枡形内を右折して南腰曲輪へ入ります。
ここから本丸へは二つの登城ルートがあったようですが、現在は、南腰曲輪から本丸南東斜面に登るルートのみとなっています。もう一つは通行できませんが、南腰曲輪の東側から間道を通り東腰曲輪経由で本丸東側に入るルートがあったようです(香川元太郎さんの復元イラストに描かれています)。
⑩本丸南西隅角石垣。上部は崩されていますが、算木積みが観察できます。
このあと本丸へ向かいます。
[メモ]本記事の曲輪名称は可児市の美濃金山城跡パンフレットによりました。
加納城 2023.12.4 [岐阜県]
加納城は、長良川扇状地の南東末端に位置し、関ヶ原戦後に徳川家康の指示で1602年から天下普請として戦国時代の城館跡に築かれた平城です。岐阜公園歴史博物館前から岐阜バスで20分ほど南下し城南通りバス停で下車、東方向へしばらく進むと、加納公園の一部になっている加納城本丸西堀跡に到着します。本丸西面に近寄ってみると石垣は下半分以下で上部は土塁の状態(腰巻石垣?)、築城当初からだったのか、それとも上部の石垣が失われたのだろうか。
①本丸北西隅。巨石による荒削りの算木積みですが、下部だけなのは不自然。かつては上部にも石垣があったのでは?この北西隅は天守台と呼ばれていますが、天守は建てられませんでした。
本丸の周囲を反時計回りに廻って行きます。
②本丸南西隅。こちらはやや小振りの石による算木積みで色合いも異なっていますが、加納城の石材はほぼ全てチャートとのこと。
本丸南面にはかつては南側の大藪曲輪から木橋を渡って入る内枡形虎口がありましたが完全に消滅し、近代にできた入口となっています。
③本丸南東隅。このあたりから石垣が最上部近くまで残っています。
④本丸東外枡形南東隅。加納城最大の見所、本丸の東に突き出る巨大な外枡形虎口。枡形空間も広いのですが、その南側・東側の土塁上に「武者溜り」という土塀に囲まれた曲輪が設けられていました。これは大変珍しいのでは。
⑤本丸東外枡形北東隅。石垣が一部崩落して失われているようです。
⑥本丸東外枡形入口。現在は入口が閉鎖されていますが、本来は大手口で北東側の二の丸から木橋を渡り、高麗門を入って右折して櫓門を通る構造でした。周囲の堀跡からは障子堀跡が確認されました。
あとで本丸北入口から入って枡形内側から見てみます。右側が高麗門跡、中央が櫓門跡ですが、石垣は失われています(発掘調査により礎石や石垣の基礎部分は確認されました)。
⑦本丸北東隅。石垣の残存状態は最も良さそうです。
⑧本丸北面。北面の石垣は途中から三分の一ほどになっています。こうして見ると本丸西側の石垣が低くなっているようです。
本丸北側の近代にできた入口(埋門はあったようです)から本丸内に入ります。
⑨本丸内側には石垣は見当たりません。子どもたちの遊び場になっているようです。
次に、加納小学校と岐阜地方気象台のあいだにある二の丸北石垣を見に行きます。
⑩二の丸北石垣。思っていたより長い石垣が残っています。この左端(北東隅)に岐阜城の天守を移築したと伝わる三階櫓が建っていました。
[メモ]加納城跡は、岐阜城跡より早く1983年に国史跡に指定され、1988年度から岐阜市により発掘調査が行われました。発掘成果の概要は『加納城跡の発掘』(2010年岐阜市Web版)で知ることができました。また、『加納城下町地図』というパンフレットが信長居館発掘調査案内所にあり参考になります。
岐阜城 2023.12.4 [岐阜県]
岐阜市の岐阜城跡と加納城跡を12月4日に訪れました。JR岐阜駅北口から岐阜バスに乗り岐阜公園歴史博物館前で下車し、岐阜城跡へ。城は金華山の山上部と山麓部から構成されています。
①金華山西面。標高はおよそ330m、全山チャートからできています。
1時間程度で歩いて登山できるようですが、ロープウェーで登ることに。その前に信長居館発掘調査案内所に行き、パンフレット・解説シートを入手。最近の山上発掘調査解説シートや香川元太郎さんの描くイラストのクリアファイルなどがあり非常に充実しています(居館の復元イメージ模型もあります)。
ロープウェーは15分間隔で運行されており、4分ほどで頂上に着きます。北西方向に歩き一ノ門跡へ。
②一ノ門跡。左崖と右岩盤・石垣の間に櫓門があったようです。
馬場跡と伝わる通路をさらに進むと二ノ門跡へ。
③二ノ門跡。坂を登って右折する枡形虎口のようです。門を入ったところの平地が下台所跡(江戸時代の絵図での名称)。
さらに坂を登って行くと、台所跡と伝わる平地がありますが、旧気象台無線中継所などの公益施設があり立入できません(三角点があるのもこちらです)。北西方向の天守への尾根道を進みます。
④天守と天守への尾根道。現在の天守は1956年に建設されたもの。天守台石垣の大半は明治時代に積み直されたものですが、ごく一部に16世紀末の姿が残っているようです。
天守台南西隅下段石垣(織田信長城主時期の可能性が高いと考えられるもの)
天守台南東隅上り口東側石垣(池田輝政城主時期と考えられるもの)
井戸跡から見上げた天守への尾根道東側石垣(織田信長城主時期以降)
1時間ほど山上を見てまわり、ロープウェーで下山、山麓の居館跡へ。居館跡は2007年から岐阜市が発掘調査を行い、入口周辺は復元整備されています。
⑤館跡入口。大きな枡形虎口で巨石列が配置されています。このうち信長時期の姿を残していたのは14石で残りは復元整備されたものです。
⑥館跡中心部。中腹の崖上平坦地は、過去の公園造成のため遺構はほとんど確認されていませんが、瓦や鉄釘が出土しており館の中心建物があったと考えられています。縁辺部では池泉遺構が確認されています。
⑦館跡中心部の奥。奥には立入できませんが、三段の平坦地となっており、建物跡や池泉遺構が確認されています。
館跡遺構は現在埋め戻されていますが、将来的には盛土の上に庭園などが再現されるかもしれません。山麓居館跡を30分ほど見てまわり、次の目的地:加納城跡に向けて岐阜バスに乗り込みました。
[メモ]岐阜城は、戦国時代、斎藤道三の城主時期(1539~1554)に本格的に整備されたと考えられており、1567年に織田信長が奪取し居城として改造、その後、織豊系の城主が続きましたが、1600年の関ヶ原前哨戦で落城し、廃城となりました。国史跡に指定されたのは山麓居館発掘調査後の2011年です。
苗木城 2022.10.26 [岐阜県]
苗木城を訪れたのは快晴の2022年10月26日(水)のこと。都内からJR特急あずさ、しなのを乗り継いで中津川駅へ。駅からはバス(北恵那交通)で城跡北側の苗木バス停に向かう(所要時間12分+α)。
①途中、木曽川に架かる玉蔵(ぎょくぞう)橋から城山(標高432m)を撮影。
苗木バス停(標高326m)からは、案内板にそってかつての城下町を南方向へ20分程度歩くと城跡入口に到着する。第1駐車場付近に史跡境界標があり、城跡環境整備のための協力金箱が設置されており少額ながら寄付する。
②竹門跡。城内への入口で、右側の石垣上は足軽長屋跡、城跡案内ガイドのパンフレットが置かれている。
竹門跡を入り、左(南東)方向にしばらく歩くと風吹(かざふき)門跡へ。
③風吹門跡。三の丸の西入口で、二階建ての櫓門だった。
現在、遺構として残っている門柱・冠木・扉部分が苗木遠山史料館のロビーに展示されている。
風吹門跡から入った三の丸北側の階段ピラミッド状の石垣が大矢倉跡。
④大矢倉跡。石垣最上部北西隅に三階建の大矢倉(一階は三方石垣に囲まれる)があり、北側と西側の石垣上に建物が階段状に続いていた。
本丸側から撮影するとこんな感じ。
⑤駈門(かけもん)跡。三の丸東側の入口、ここを下ると四十八曲りと呼ばれる道を通り麓に出る。
⑥大門跡。三の丸南側から二の丸・本丸への入口で櫓門だった。
登り道は本丸に通じるがそれは帰り道に残しておいて、右(西)に折れて二の丸を西→南→東と廻って本丸に至るルートを選ぶ。なお、中津川市のウェブサイトではこの先の箇所が「落石のため、当面の間、散策道の一部が通行止めとなっています」となっているが、現地には通行止めの表示はないので進んでみることに。
⑦二の丸藩主住居跡と的場(弓の練習場)跡。藩主住居は石垣(画面上側)から張り出した懸け造りとなっていた。下の平場は的場跡。このあたりは人通りは少ないが、きれいに草刈りされている。
⑧不明(あかず)門跡。二の丸南西隅の櫓門跡で、門の外は崖になっている。
⑨帯曲輪。二の丸東側にある階段状の小曲輪群で防御施設だったらしい。
二の丸を反時計回りに回って本丸口門跡手前の千石井戸に到着。
⑩本丸北側石垣と千石井戸。上部が垂直に近くなる特徴的な石垣。
⑪本丸西側。登り道の途中に玄関口門があり、山頂部には天守・千畳敷などの建物があった。
⑫天守台。岩に柱穴を開けて三階建ての天守が築かれていた。現在は展望台が設置されている。
⑬展望台から東南方向(恵那山)の眺望。
本丸からはつづら折れルートで下山。足軽長屋跡から南西方向へ山道(高森神社方向)を進み絶景ポイントへ。
⑮城山西側全景。巨石群や本丸へのつづら折れ道がよく見える。中央下の石垣が二の丸藩主住居跡。
そのまま歩いて行くと遠くのB1・2駐車場に出てしまった(引き返した方がよかった)。苗木城復元模型などが展示されている苗木遠山史料館に立ち寄った後、バスで駅前に戻り、にぎわい特産館で栗きんとんを購入して帰路についた。
岩村城 2021.11.20 [岐阜県]
①岩村町本通りから城山を望む。
常夜灯を左折し岩村川を渡って麓の藩主邸跡へ。
②藩主邸跡。このあたりの標高は560m。現在の建物群(太鼓櫓・表御門など)は、絵図などにもとづき1990年に木造で建てられたもの。なお、敷地内にある藩校の知新館正門は移築されたもの。
ここからが本格的な登りとなる。石畳で整備された登城路を登って行き左折したところが一の門跡。
③一の門跡。絵図によると櫓門があり、登城路の左右には武家屋敷が構えられていた。
次の関門が土岐門跡。
④土岐門跡。こちらは薬医門形式で城下の徳祥寺に山門として移築されている。
右折して次の関門の畳橋・追手門跡へ。
⑤畳橋・追手門跡を堀底道から撮影。画面左の石垣から右の石垣(三重櫓台跡)方向へ架かっていた橋が畳橋で、左折したところに枡形虎口の追手門があったが、枡形虎口の痕跡を見つけるのは難しい。
左右に石垣が続く大手道を進む。
⑥大手道。左右の石垣上には武家屋敷があった(左側は八幡曲輪)。この先の右側に霧ヶ井がある。
⑦二の丸北東隅(菱櫓台付近)。現在は樹木が生い茂り石垣は土と苔に覆われてほとんど見えなくなっているが、中井均さんの「昭和40年代の城跡を行く」(「カメラが撮らえた古写真で見る日本の名城」所収)によると、植林を始めたころ(1973年)の二の丸は累々とした石垣がみごとな景観だった。
この先が有名な六段石垣。
⑧本丸北東面の六段石垣。背面の高石垣の崩落防止のため江戸時代後半に築かれたものとされる。画面右側最上部の石垣は野面積みだが、全体としては切石を斜めに積む江戸時代後半以降の技法である谷積み(落し積み)になっているようだ。
本丸へは二の丸からのルートと東曲輪からのルートがあるが、まずは東曲輪ルート。
⑨東曲輪への登り口。登ったところに櫓門があった。
東曲輪から本丸へ。
⑩本丸東虎口を東曲輪から撮影。右に折り返して長局(ながつぼね)埋門から長局曲輪に入り、左に進むと枡形虎口の本丸東口門へ、右に進むと本丸北柵門へ、という風に凝った造りとなっている。
⑪本丸東口門跡。枡形虎口を左折し本丸へ入る(駅から歩いてちょうど1時間後)。
本丸西側から帯曲輪に下りる(このルートは出丸駐車場からの登城路となっている)。
⑫本丸西面石垣。この石垣は本丸南面の途中まで続いている。
本丸北西下の二の丸不明門跡から二の丸に入り、二の丸から本丸北虎口の埋門跡へ。
⑬本丸北埋門跡。櫓門があった。画面右側の石垣は野面積みで城内最古とされるもの。
埋門から帯曲輪に入り左折すると手前に本丸北枡形虎口、奥に本丸北柵門へ、という風にこちらも凝った造りとなっている。
⑭狭いコの字型になっている本丸北枡形虎口。
二の丸に戻り、痕跡の分かりにくい二の丸門跡から大手道へ出て下山。岩村歴史資料館に立ち寄って2種類の絵図を購入。岩村駅15時37分発の明知鉄道に乗り帰路についた。岩村城は岩村遠山氏の居城として築かれたが、戦国時代には武田氏・織田氏の攻防の舞台となり、長篠合戦後は織豊系大名が城主となり近世城郭への改造が行われた可能性もあるが、現存する最古の石垣(本丸北側)は1601年に城主となった松平家乗によって築かれたものと考えられ、それ以外の石垣は江戸時代中~後期に積み直されたものとされる(「岩村城跡基礎調査報告書2」より)。現在、岩村城跡は岐阜県史跡に指定されている(国指定ではない理由は何だろうか)。