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山形城 2023.11.22 [山形県]

1122日、山形城を訪れました。山形新幹線で山形駅下車、連絡通路経由で霞城(かじょう)セントラルビルに行き、24階の展望ロビーへ。
霞城セントラルビル展望ロビーから北方向、山形城跡(本丸、二ノ丸)の眺望。
山形城102霞城セントラルビルより.jpg
山形城は、東から北西に流れる馬見ヶ崎川の扇状地の扇端湧水帯に位置しています。現在残る遺構は、戦国時代末期の最上義光(よしあき)が原型を造り、その後1622年に城主となった鳥居忠政が大改修したもの。明治に入って陸軍用地となり二ノ丸の堀・土塁・石垣は残ったものの本丸は地下に埋まっていましたが、1986年に国史跡指定され発掘調査と本丸復原整備が行われています。
二ノ丸東堀。二ノ丸東堀端は奥羽本線、さらにその東側には民家が連なっているため堀端を歩くことはできませんが、南・西・北は堀端を歩くことができます。
山形城103東堀.jpg
二ノ丸南追手門跡。土橋を渡り枡形を左折して二ノ丸へ入ります。
山形城107南追手門跡.jpg
二ノ丸虎口は四ケ所ありますが、いずれも石垣造りの枡形虎口で、両脇に多聞櫓を配置しているのが山形城の特徴です。最上義光時期は外桝形でしたが、鳥居忠政時期に内枡形に改造されました。
土塁上の遊歩道を時計回り(南→西→北→東)に進みます。
④ 二ノ丸坤(ひつじさる)櫓台。二ノ丸南西隅の櫓台で、発掘調査後に失われた上部の石垣が復元整備されました。
山形城115坤櫓台.jpg
西堀の途中で西に折れたところに西不明門跡があります。
二ノ丸西不明門跡。木橋を渡り枡形を右折すると、さらに石垣に遮られ左折する二重枡形に近い構造で見所の一つ。
山形城121西不明門跡.jpg
山形城120西不明門跡.jpg
さらに西側の土塁上を進み、三階櫓台跡の痕跡を見て北西隅を曲り、北不明門跡へ。
二ノ丸北不明門跡。手前の土橋部分は幅が広く現在車道となっていますが、正保城絵図を見ると土塀に囲まれた外枡形となっており、内枡形とあわせて二重枡形となっていました。現在、内枡形の奥側の石垣は失われています。
山形城127北不明門跡.jpg
北堀端を東へ進み、二ノ丸北側の突出部(横矢枡形)を見に行きます。
二ノ丸北の横矢枡形部。最上義光時期を描いた絵図によると馬出のような出入口が描かれており、それを改造したものと思われます。
山形城141北横矢枡形.jpg
二ノ丸内に戻り、北側土塁上を歩いて行きます。
二ノ丸土塀跡。土塀の礎石がきれいに残っています。屏風折れ土塀跡もあります。
山形城135土塀跡.jpg
肴町向櫓台、艮櫓台を見て、東大手門へ。
二ノ丸東大手門。石垣修復・復原、高麗門・櫓門・続櫓などの復原が1991年に完成。櫓門・続櫓内は4月~10月まで公開されています。
山形城153東大手門.jpg
次いで中央の本丸跡へ。本丸は発掘調査と土塁・堀・石垣などの復原が進行中です。今のところ、東側の土塁・堀、南側の土塁・堀、本丸一文字門枡形部分の石垣・高麗門・大手橋、西側の土塁・堀が復原されています(本丸内の公開は4月中旬~10月下旬のため立ち入れず)。
本丸一文字門。本丸南東隅の外枡形虎口。多聞櫓と一体になった長い櫓門(一文字の由来)が特徴。
山形城160本丸一文字門.jpg
二ノ丸内には県立博物館や山形市郷土館がありますが、2時間の滞在予定期限が迫っており見学は割愛し、二ノ丸南追手門から退城、帰路につきました。



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小田城 2023.11.8 [茨城県]

近年、中心部の土塁・堀などが復元整備された、つくば市にある小田城を118日に訪れました。都内から常磐線で土浦駅へ、土浦駅西口からバス(関東鉄道グループ)で宝篋(ほうきょう)山入口下車。バス停から南西方向にしばらく歩くと東曲輪東面が見えてきます。
東曲輪東面。「東曲輪」(パンフレットの表記)は、本来は本丸(曲輪Ⅰ)周囲の北側から東側へ続く曲輪Ⅱの一部です。このあたりは草が生い茂っています。
小田城101東曲輪東面.jpg
さらに進むと本丸北東隅の突出部が見えてきます。
本丸北東隅。隅の突出部は「鐘撞堂」と呼ばれる高台になっています。周囲の土塁・堀は、城郭最終段階(戦国時代末期)の佐竹氏支配時期(15691602)の姿で復元整備されたものです。大変きれいに刈り込まれています。
小田城102本丸北東隅.jpg
本丸北の土橋を渡って北虎口から内部へ入ります。城郭最終段階の堀底は現在の復元より2mほど深く障子堀構造になっていました。
小田城106本丸北面.jpg
本丸の北側には城郭最終段階には角馬出があった(草地部分)ようです。
小田城109本丸北土塁上より北方向.jpg
北側から本丸内部を撮影。南北に大溝が再現され、北西側に建物群の跡が表示されています。南東側には東池(小田氏居城時期)が再現されています。なお、発掘した遺構は約1mの盛土で保護し、その上に建物跡や池や大溝などが再現表示されています。
小田城108本丸内中央.jpg
本丸東堀。このあたりは湿地になっています。
小田城111本丸東堀.jpg
本丸南東隅。「涼台(すずみだい)」と呼ばれる高台になっています。標高は14mほどの城内最高所、人工的に積み上げられたものでしょうか。ここには古城の雰囲気があります。
小田城118涼台.jpg
本丸南西虎口。この虎口は城郭最終段階に造られたとされ、周辺からは石垣遺構が確認されています。遺構保護のため1mほど盛土されて石垣が再現されています。背景の左側は筑波山、右側は宝篋山。
小田城127南西虎口.jpg
南西虎口前面の南西馬出曲輪。これも城郭最終段階に造られたもの。佐竹氏支配時期には馬出が多用され防御力が一段と強化されています。対小田原北条氏、または、対徳川氏を意識したものでしょうか。
小田城122南西馬出.jpg
本丸北西隅の遺構展示室。もとは本丸跡を横切っていた線路(関東鉄道および筑波鉄道の筑波線)の跡のようですが、土塁断面の遺構の変遷を表示しています。
小田城136北西隅.jpg
このあと、小田城跡歴史広場案内所に行き、各種パンフレットを入手、展示は小田氏に関するものが大半となっています。
[メモ]小田城は、鎌倉時代から戦国時代まで常陸国南部を支配した小田氏の居城として拡張され、1569年以降は佐竹氏が奪取し防御力を強化する改造を行いましたが、1602年の佐竹氏の秋田転封後に廃城となりました。南北朝時代に北畠親房が在城中に「神皇正統記」を著わしたこともあり1935年に国史跡に指定されています。つくば市では1997年度から本丸跡の発掘調査を行い、発掘調査成果をもとに本丸跡とその周辺を2009年度から「小田城跡歴史ひろば」として復元整備し20164月に開園しました。また、周囲の曲輪についても2009年度から2018年度まで発掘調査が行われました。



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