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油山寺 2022.12.1 [静岡県]

「目の霊山」の油山寺(ゆさんじ)には掛川城と横須賀城からの移築建物が現存しているので、城めぐりからもはずせない。袋井駅北口からお寺近くまでは袋井市自主運行バスの北部循環線(平日のみ、10人乗り)があるが、時間帯があわないのでタクシーで行くことに(所要時間10分)。
①入口の山門(重要文化財)。もとは掛川城の大手二の門(掛川市『掛川城のすべて』1996年によると大手筋三の門または玄関下御門・・・二の丸御殿下の南東側の門)で1659年に創建されたもの。廃城後に寺に移築され、その後改変されたが、1971年の大修理により元の姿に復元されたとのこと。妻側一階部分に屋根がないのは掛川城では門脇の土塁(または石垣)上に付櫓が接続していたためと思われる。
油山寺104山門.jpg
紅葉時期なので参道の人通りは多く賑わっている。
②本坊方向への参道から左折して三重塔や薬師本堂のある天狗谷方向への参道を進む。
油山寺108参道.jpg
るりの滝から先は石段を上り、三重塔に到着する。
③三重塔(重要文化財)。天正年間に起工したが中断、久野城城主の久野宗成が1611年に完成させたもので、1969年に解体修理されたとのこと。
油山寺113三重塔.jpg
④さらに石段を上り薬師本堂(静岡県文化財)にお参り。
油山寺115薬師本堂.jpg
⑤本坊方向に戻り、書院(静岡県文化財)へ。もとは横須賀城の書院として1699年に創建され、1859年に寄進により移築されたもので、1979年に創建当初の姿に復元修理されたとのこと。内部拝観できるのだが、時間の都合で内部見学は割愛し退去。
油山寺116書院.jpg
[メモ]本記事の解説部分は現地説明板のほか油山寺ウェブサイト、静岡県ウェブサイト「しずおか文化財ナビ」によりました。



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横須賀城 2022.12.1 [静岡県]

寒気が流れ込む2022121日(木)、玉石積み石垣で有名な横須賀城を訪れる。都内から新幹線で掛川駅へ、東海道本線に乗換え袋井駅へ。駅南口から秋葉バスで20分ほどの七軒町バス停で下りる。バス停の東方向が南外堀跡となる。
①西大手門跡と南外堀跡。画面左手の生垣付近が西大手門跡、その右隣は西櫓跡、芝生部分は南外堀跡。現在の道路(県道)はかつての土手、その外側は内海(潟湖)だったが、1707年の宝永地震で干上がったようだ(掛川市ウェブサイト「横須賀城下町をブラタモリ的に歩く」に宝永地震前の地図が掲載されている)。
横須賀城101南外堀.jpg
しばらく東方向へ歩き、左折して小道に入り東進すると西の丸南面、そして本丸南面が見えてくる。
本丸南面下の広場に城跡の詳しい案内が掲示されている。
②本丸南面石垣。下から見上げる。
横須賀城143本丸南面.jpg
上から見おろす。
横須賀城152西の丸から南面.jpg
石垣は三段構造となっている。一段目は南側に突き出た本丸と西の丸の台地のあいだを埋めるように築かれており、二段目・三段目は一段目の石垣で築かれた曲輪から本丸・西の丸へ登る斜面に築かれている。廃城後、大半が失われていた「玉石積み」石垣は、発掘調査に基づき19941996年度に復元整備工事が行われ現在の姿になっている。
本丸へ登るのは後にして三日月池へ。
③三日月池(堀)。本丸南東斜面の崖下にあり、初期の内堀の残存と考えられている。
横須賀城111三日月池.jpg
さらに東進し、東大手門跡(標柱のみ)を経て三の丸跡へ。
④三の丸跡。本丸・北の丸の東側にあり、戦後の高度成長期に工場用地となっていたが2004年に公有地化され、2021年に発掘調査が行われた。画面手前左付近が太鼓櫓跡、右の舗装路面付近が東外堀跡、正面の山が松尾山(標高26m)、右奥の山が敵さい山(標高33m)。
横須賀城112三の丸.jpg
三の丸跡から北の丸へ。
⑤北の丸からの本丸北東面。山裾を急傾斜に削った切岸、高低差は最大9mほど(本丸標高23m、北の丸標高14m)ある。
横須賀城116北の丸から本丸.jpg
⑥松尾山。城の北東隅にあり築城当初の拠点と考えられている。
横須賀城119松尾山.jpg
山頂部の池と多聞櫓台跡。多聞櫓台跡から北東隅の崖を見おろすと敵さい山との間の堀切跡(空堀跡)を見ることができる。
横須賀城121松尾山山頂.jpg
いよいよ本丸に登り、北側の天守台跡へ。
⑦本丸天守台跡。発掘調査に基づき、土塁、礎石、石垣が復元されている。土塁に建物の一部が載る構造と想定(服部英雄「史跡における建物復原の問題点」1994年)される。2020年に発見された古図面には層塔型の四層(四階)+土塁接続階の五階建て天守が描かれている(本丸南面下の広場に掲示)。
横須賀城134天守台.jpg
本丸から西の丸へ入り、西の丸西側の出入口から降りる。
⑧西の丸西虎口。西の丸から中段の曲輪で折れて下の曲輪に降りる構造となっている。
横須賀城155西の丸西虎口.jpg
米蔵跡のたたき製防火水槽を見たあと、さらに西に進み、二の丸跡へ。
⑨二の丸と北外堀跡。二の丸跡の北側に北外堀跡が残されている。
横須賀城162北外堀跡.jpg
城跡の北西側にある撰要寺山門を見に行く。
⑩撰要寺山門(掛川市文化財)。撰要寺は横須賀城を築城した大須賀康高の創建によるもので歴代城主の庇護を受けた。この山門は、廃城時に城の北西隅にあった不開門(あかずのもん)を移築したもの。
横須賀城166撰要寺山門.jpg
1時間ほどで城跡をほぼ一周、バスで袋井駅に戻り次の目的地:油山寺をめざす。
[メモ]横須賀城は、1578年に高天神城奪還のため徳川家康が家臣の大須賀康高に築城させたのが始まりで、その後、遠江南部の拠点として拡張整備されました。明治維新後は廃城となり土地・建物等は民間に払い下げられましたが、1981年に遺跡保存のため城跡一帯が国史跡に指定され、現在ではご覧の通り美しく整備されています。本記事の解説内容は、おもに現地の説明板によりました。掛川市「令和3年度史跡横須賀城跡三の丸確認調査報告会資料(R4.1.21)」を利用して今回の歩行ルート(オレンジ色)を表示します。
横須賀城歩行ルート2.jpg



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掛川城 2020.2.11 [静岡県]

2020年2月11日(火)、二俣城から天竜浜名湖鉄道で向かったのは掛川城。掛川駅15時38分到着後、まず、大手門へ。掛川城は、16世紀前半、今川氏家臣の朝比奈氏によって築かれ、1569年からの徳川氏家臣の石川氏を経て1590年~1600年は豊臣系大名の山内一豊が城主となり石垣構築・天守を中心に瓦葺き建物造営など近世城郭化をはかり、1600年以降は徳川譜代大名が城主となり、明治維新で廃城となった。

①大手門とその奥に番所(駅から徒歩15分程)。大手門は1854年安政東海地震により倒壊、再建されたが廃城後に城外へ移築後焼失。現在の大手門は、発掘調査等に基づき1995年に遺構の約50m北に木造でよみがえった(江戸時代初期の正保城絵図などを参考にしているようだ)。番所は地震で倒壊後に再建され、廃城後に城外へ移築されたのち、この場所に再移築された(掛川市文化財)。

掛川城101大手門.jpg

外堀として機能した逆川を渡り、本丸へ。

②本丸門前の枡形を十露盤(そろばん)堀北側から撮影。正保城絵図を参考に建設された四足門(しそくもん)を入ると、本丸門前に十露盤堀・三日月堀で囲まれた枡形空間がある(正保城絵図では土塀と門で囲まれている)。これらの堀は発掘調査後復元整備された。

掛川城111十露盤堀.jpg

③本丸門跡を入ったところから太鼓櫓を撮影。太鼓櫓は、元は三の丸にあり、安政東海地震で倒壊後に再建され、廃城後は城外への移築を経て一旦三の丸に戻った後、1955年に現在の本丸東南部へ移築された(市文化財)。なお、石垣は現代のものである(正保城絵図では本丸は土塁囲い)。

掛川城117本丸門.jpg

④本丸から天守丸を撮影。標高57mの山頂部が天守丸。つづら折りの登城路は発掘調査後、整備された。天守建物は、山内一豊創建のものは江戸時代初めの地震で損壊したようで1623年頃に修復されその姿は正保城絵図に描かれている。その後、安政東海大地震で損壊し取り壊されたようだ。1994年に、掛川市民からの寄付金をもとに、正保城絵図等の絵図+高知城天守を参考に設計された木造天守がよみがえった。

掛川城118天守丸.jpg

⑤天守台南東面。天守台南面石垣は山内時代の石垣が残っているようだ。隅角部はきれいな算木積みなので現代の積直しと思われる。天守台の中心部は1905年の平和観音像建立時に大部分破壊されたが、南面及び西面の一部には旧石垣が残っているとのこと(「掛川城のすべて」1996年3月)。

掛川城123天守台南東面.jpg

天守丸を下りて、本丸から二の丸御殿へ。

⑥二の丸御殿。安政東海大地震で倒壊後、1861年に再建されたもので、城主の居間と藩の政庁があった。廃城後は学校・町役場等に使用されたのち、修復工事が行われた(国重要文化財)。入館料は天守とセットで410円。ここで安政東海地震後の「遠江国掛川城地震之説損所之覚図」(2080円)を購入。

掛川城138二の丸御殿.jpg

このあと、掛川市内の圓満寺に移築された蕗門へ(旧東海道沿いにある)。

⑦蕗門(ふきのもん)。二の丸と三の丸の間の通路の入口にあったが、廃城後に圓満寺に移築され現存している(市文化財)。瓦紋は「丸に桔梗紋」(江戸時代後半の藩主太田氏の家紋)で、屋根に亀飾りが付いている。

掛川城140旧三の丸蕗門(円満寺).jpg

このほかに、大手門と同型式の櫓門である玄関下御門(蕗門の次に通る門)が袋井市の油山寺に移築され現存している(国重要文化財)が、遠いので別の機会に。掛川滞在は1時間20分ほどで、掛川駅17時4分発のこだま666号で帰路についた。掛川城跡は、史跡に指定されていないため、古写真や創建時の図面などに基づく忠実な建造物復元は不要であるメリットを生かして、天守・大手門など平成の再建・整備が行われ歴史的景観を醸し出している。

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二俣城 2020.2.11 [静岡県]

2020年2月11日(火)、鳥羽山城から二俣城へ向かう。

①鳥羽山城から北方向の二俣城(本丸の標高83m)を遠望。

二俣城001鳥羽山城より遠望.jpg

二俣城は、西に天竜川、東に二俣川、南は二俣川旧流路(18世紀後半に東側へ付け替えられた)に囲まれた南北に細長い丘陵南端部に位置している(かつては、二俣川は東から西(画面右から左)へ流れ天竜川に合流していた)。この地へは、1560年桶狭間の戦い後に今川氏家臣の松井氏によって築城されたようだが、その後、徳川氏→武田氏→徳川氏への領有変遷後、1590年~1600年に豊臣系大名の堀尾氏領地となり石垣造りの城に改造するも堀尾氏転封後は廃城となった。現在残っている石垣等の遺構は堀尾氏時代のものとされ、2018年に鳥羽山城とセット(別城一郭)で国指定史跡となった。

鳥羽山城から下って、再び上り二俣城址入口看板前に13時50分頃到着(鳥羽山城から徒歩10分程度)。ここから旭ヶ丘神社の参道(石段)を一気に登ると、右は旭ヶ丘神社に造成された北の丸跡、左は本丸となり、その間は堀切となっている。

②本丸と北の丸の間の堀切を東側から撮影。

二俣城003本丸・北の丸間堀切.jpg

③本丸搦手門跡を本丸内から撮影。本丸の北東隅に両側が石垣造りの搦手門跡がある。本丸内ではゲートボール大会を開催中だった。

二俣城006搦手門.jpg

④天守台北東面。本丸西側に天守台がある。浜松城天守台一辺21mに対しこちらは14~16mとのこと。石材は在地で算出する珪質石と石灰石を用いたものだそうで、野面積みである。天守台頂部は土で覆われており礎石は見えない。

二俣城007天守台北東面 (2).jpg

⑤本丸と二の丸の間の中仕切門跡を東側から撮影。本丸南東隅にある二の丸から本丸への虎口で、南(画面左)の二の丸から西へ直角に曲がり北(画面右)の本丸へ入る構造(喰違虎口)となっている。

二俣城016本丸・二の丸仕切門.jpg

⑥二の丸大手門跡を北側土塁上から撮影。二の丸の南東部に両端が石垣造りの大手門跡がある。

二俣城019二の丸大手門.jpg

⑦二の丸と南の丸Ⅰの間の堀を東側から撮影。大手門跡を出て南に進むと二の丸と南の丸Ⅰの間の堀で、画面右が二の丸、左が南の丸Ⅰ。この堀を西へ降りて行くと、西の丸の曲輪群がある。西の丸は現状、竹木が生い茂っているが、一番下の曲輪の西面・南面には石垣遺構が残っているとのこと(時間不足で見ることができず)。

二俣城022二の丸・南の丸堀切.jpg

南の丸Ⅰの南内側に土塁・石垣があるが、これは近年、破壊された後に復元されたもの。南の丸Ⅰの南には堀切を隔てて南の丸Ⅱ(竹木が生い茂っている)がある。なお、本記事の曲輪名称・情報は「二俣城跡・鳥羽山城跡総合調査報告書(2017年3月)」によった。

14時20分頃に退城(二俣城滞在は30分程度:やや時間不足)し、天竜浜名湖鉄道の二俣本町駅へ。14時40分発→掛川駅15時38分着で掛川城をめざす。



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鳥羽山城 2020.2.11 [静岡県]

鳥羽山城は、天竜川扇状地の頂点北側の丘陵上に位置し(浜松市天竜区二俣町)、1575年に徳川家康が二俣城を武田氏から奪還するために本陣を置いた地であるが、現在残る石垣等の遺構は1590年~1600年に領主となった豊臣系大名の堀尾氏時代のものとされ、大規模な大手道や枯山水庭園の遺構があることから御殿的要素が強く、隣接する軍事拠点の二俣城と機能を分けていたと見られる。堀尾氏転封後は廃城となった。2018年に、二俣城とセット(別城一郭)で国指定史跡となった。

2020年2月11日(火)、遠鉄電車の終点:西鹿島駅を12時44分下車後、北西方向へ進み天竜川に架かる鹿島橋を渡る。対岸の小高い山が鳥羽山城である。

①鳥羽山城全景を鹿島橋手前から撮影。中心的な遺構は西側(画面左)の山頂(標高108m)にある。

鳥羽山城001鹿島橋より.jpg

②筏問屋(いかだどんや)田代家住宅。橋を渡って、鳥羽山城麓の筏問屋田代家住宅をめざす。田代家住宅の右奥から城山へ登る小道が続いている。田代家は、江戸時代に名主を務めた旧家で筏問屋を営んでいた。現在の主屋は、1859年に再建されたもので登録有形文化財である。(西鹿島駅から田代家住宅まで徒歩25分程度)

鳥羽山城003筏問屋田代家.jpg

③大手道。つづら折りの山道を登りきると、山上をめぐる自動車道路に出る。しばらく西方向へ歩くと本丸へ登る道がある。これが大手道である。発掘調査報告書によると、両側に石垣が設置され、道幅は6~9mと現代の舗装路面より大規模なものだったとのこと。

鳥羽山城008大手道.jpg

④本丸大手門跡。大手道を西方向へ登って行くと、右折して本丸に入る大手門跡がある。門の両側は石垣造りで広い枡形虎口を形成している。角隅部は崩落しているようだ(草刈り直後でないと分かりにくい)。

鳥羽山城011大手門.jpg

⑤本丸東門跡。門の両側は大手門同様に石垣造りで枡形虎口を形成している。角隅部は崩落しているようだ。

鳥羽山城017東門.jpg

⑥本丸枯山水庭園跡。本丸西端の土塁に面して庭園遺構が発掘調査により見つかっている。

鳥羽山城021枯山水.jpg

⑦本丸搦手門跡。本丸北側にあり、門の両側は石垣造りとなっている。角隅部は崩落しているようだ。

鳥羽山城024搦手門.jpg

搦手門跡から本丸を出て、本丸西側下を腰巻石垣の残存状態を見ながら(上部の鉢巻石垣は見落としてしまった)歩き、13時40分頃、自動車道路に下りて次の目的地、二俣城をめざす(鳥羽山城滞在は30分程度)。


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浜松城 2020.2.11 [静岡県]

2020年2月11日(火)、浜松城→鳥羽山城・二俣城→掛川城をめぐる一日旅に出かける。まず、東京駅発9時3分発ひかり465号で浜松駅10時30分着。駅から西へ進んだ後、かつての大手道(大手通り)を北に歩き、浜松市役所の西側に進むと、浜松城天守曲輪が見える(徒歩20分程度)。

浜松城は三方ヶ原台地の東縁の河岸段丘上に位置し、徳川家康が1570年に岡崎城からこの地に居城を移した際、前身の引馬(曳馬)城から浜松城に改称し城域を拡張・整備したが、現在残る石垣造りの城跡は、1590年~1600年に城主となった豊臣系大名の堀尾吉晴が築いたもの。現在は、浜松市史跡。

①天守曲輪南側全景。

浜松城0002天守曲輪・本丸.jpg

画面左側が天守曲輪、石垣で囲まれている。画面右側には石垣で囲まれた本丸があったが、半分以上消滅している。近年、発掘調査により本丸南側の残存石垣が見つかり表示(画面手前の直角三角形状の石垣)されている。

②本丸富士見櫓台を天守曲輪から撮影。本丸北側の富士見櫓台は本丸唯一の遺構。本丸には江戸時代初期には将軍家専用の御殿があったとされる。

浜松城014富士見櫓石垣.jpg

③本丸から天守門を撮影。天守曲輪東側の櫓門である天守門は明治維新後に撤去されたが、2014年に復元された。本丸から天守門へは、南の登城道、または、本丸北側の富士見櫓台側から登る二つのルートがある。

浜松城007天守曲輪東石垣.jpg

④天守台南東面。

浜松城025天守台南東面.jpg

天守台は天守曲輪の北側に築かれている。東側に付櫓台が張り出している、穴蔵地階に井戸が設置されているなど堀尾吉晴が関ヶ原戦後に築いた松江城天守との共通点が指摘されている。石垣は浜名湖北岸の珪岩を用いた野面積みである。天守建物は16世紀初頭には失われ、現在の天守建物は1958年に鉄筋コンクリートで模擬的に建設されたもので、財源不足のためか、西側にスペースを空け、本来の3分の2程度の規模となっている。なお、入場料は200円。

⑤天守台南西面。天守台の北西側(画面左)に張り出しているのが八幡台と呼ばれる城内最高所(標高41.9m)。八幡大菩薩をおまつりしていたとされる。

浜松城031天守台南西面.jpg

⑥埋門跡。天守曲輪西側の門。

浜松城034天守曲輪埋門.jpg

⑦二の丸発掘現場を富士見櫓台から撮影。現在、市役所北側の二の丸(旧元城小学校跡地)を浜松市で発掘調査している。江戸時代には二の丸御殿があった場所である。

浜松城010二の丸御殿発掘現場.jpg

浜松城滞在は1時間程で、11時50分退城し、元城町東照宮(1886年頃創建:引馬城跡地)に立ち寄った後、遠鉄電車で遠州病院駅発12時14分→西鹿島駅12時44分着、鳥羽山城をめざす。

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駿府城 2018.1.20 [静岡県]

駿府城は、明治維新後、天守台は取り壊されその土砂で本丸堀(内堀)も埋め立てされたが、天守台再整備のため、2016年度から2019年度にかけて静岡市により発掘調査が行われている。私が諏訪原城からの帰路、静岡駅に到着したのは2018年1月20日(土)14時22分。静岡駅北口を出て大通り(御幸通り)を北に向かうと10分程度で三ノ丸堀(外堀)が見えてくる。

①枡形虎口の三ノ丸大手御門跡。三ノ丸内部は現在、官庁街となっている。正面のビルは静岡県庁東館。

駿府城003三の丸大手御門跡.jpg

②三ノ丸を通り抜けて、二ノ丸巽櫓(1989年復元)・東御門(1996年復元)へ。二ノ丸堀(中堀)南東角から撮影。東御門は高麗門・櫓門・多門櫓で囲まれた典型的な徳川系枡形虎口を再現している。

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③復元建物の内部は見学できる。東御門の多門櫓側から櫓門を撮影。

駿府城010二の丸東御門.jpg

④復元建物内部に展示されている天守復元模型(天守というより天守曲輪)を撮影。天守は何回か築かれたが、このモデルは徳川家康最後の天守(1610年完成、1635年焼失、以後再建されず)と思われる。このほかに城全体復元模型も展示されている。

駿府城011天守模型.jpg

⑤本丸堀(内堀)は2カ所残っている。このうちの一つを撮影。画面手前の水路は二ノ丸堀とつながっている。

駿府城014本丸堀.jpg

⑥本丸北西にある天守台発掘調査現場は公開されている。見学ゾーンから天守台西側南端を撮影。発掘情報館きゃっしるで、資料や映像、出土瓦などを見ることができる。

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⑦二ノ丸南口(本来の二ノ丸大手門から70m東に設置)から出て、二ノ丸南西隅の坤(ひつじさる)櫓(2014年復元)を撮影。

駿府城019二の丸坤櫓.jpg

静岡駅15時52分発の新幹線で帰途についた。今後、天守台をどのように整備するのか興味のあるところ。



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諏訪原城 2018.1.20 [静岡県]

諏訪原城は、お茶の大産地となっている牧ノ原台地の大井川側の断崖上に立地する土造りの城である。武田勝頼が遠江攻略の拠点として1573年に築城したが、1575年の長篠合戦の後、1ヶ月の攻防戦を経て徳川家康に奪取され大改修され、1582年の武田氏滅亡後は重要性を失い廃城となった。2018年1月20日(土)、東海道新幹線で11時4分静岡着、11時21分発の各駅停車に乗換え、金谷駅11時52分着。国道473号線を横断し、旧東海道の金谷坂石畳(1991年復元)を登って行く。

①登りはじめの金谷坂石畳を撮影。復元石畳は430mだそうですが、段々勾配がきつくなるので覚悟がいります。

諏訪原城002金谷坂石畳入口.jpg

②金谷坂を登り終えると、平坦な台地が拡がっている。しばらく旧東海道に沿って西方向へ歩いて行くと城入口の駐車場に12時14分頃着く(この場所に2019年3月、諏訪原城ビジターセンターができており、続100名城スタンプ、パンフレットが入手できる)。大手曲輪を撮影。へこんでいる部分が大手南外堀跡。樹木が生い茂っているあたりが二の曲輪。

諏訪原城005大手南外堀.jpg

③二の曲輪の西側を廻る外堀を堀底から撮影。かなり深い。箕輪城の堀を思い出す。

諏訪原城015外堀.jpg

④最大の見所、二の曲輪中馬出を撮影。二の曲輪の手前には馬出が6カ所程度あるが、規模が大きくて樹木が伐採されているのはここだけ。発掘調査の結果、徳川段階のものとされた(焼土層がないため)。画面右奥は復元された薬医門。

諏訪原城017二の曲輪中馬出.jpg

⑤北側から二の曲輪中馬出を撮影。前後に深い堀がある。画面左側が二の曲輪である。

諏訪原城029二の曲輪中馬出.jpg

⑥馬出経由で土橋を渡り二の曲輪に入る。二の曲輪側から馬出を撮影。

諏訪原城034二の曲輪虎口.jpg

⑦二の曲輪側から内堀土橋の向こうの本曲輪を撮影。本曲輪の東側は断崖となっている。

諏訪原城037本曲輪虎口.jpg

⑧本曲輪から内堀に降りて堀底のカンカン井戸へ。

諏訪原城044内堀カンカン井戸.jpg

⑨二の曲輪を横断し、諏訪神社のある二の曲輪大手曲輪を撮影。城内に諏訪大明神をまつったことから諏訪原城の名がついたといわれる。

諏訪原城054二の曲輪大手馬出.jpg

南側にも何カ所か馬出がある。これらを巡ったあと、13時20分頃退城。金谷坂を下り、金谷駅へ。13時51分発の各駅停車で静岡駅14時22分着。せっかくなので、駿府城へ立ち寄ることに。



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山中城 2018.4.22 [静岡県]

山中城は、三島市にある土造りの山城である。東海道箱根峠の関門として小田原北条氏が豊臣秀吉との対決に備え防衛拠点として増改築したが、圧倒的兵力差により1590年3月29日激戦の末、落城した(その後、廃城)。現在は、発掘調査の結果をもとに障子堀などが美しく復元整備されている(当時のままに復元したわけではないらしいが)。2018年4月22日(日)、東海道新幹線で三島駅に10時57分着。南口の観光案内所でパンフレットを入手し、11時15分発の東海バス(元箱根港行)に乗車、国道1号線を上って行き、11時45分山中城跡のバス停に到着(区間フリー切符「みしまるきっぷ」がおすすめ)。バス停前の広場のあたりが大手口だったらしい。

①1号線の南側にある岱崎出丸(だいざきでまる)に行く。東海道に沿って尾根上に細長く構築されている。西端の櫓台から東海道沿いの畝堀(一ノ堀)を撮影。

山中城007岱崎出丸畝堀.jpg

②1号線の北側に戻り、三ノ丸堀に沿って田尻の池・箱井戸へ。ここから二ノ丸へ続く登りとなる。登りの途中から田尻の池と三ノ丸堀を撮影。

山中城012田尻の池と三ノ丸堀.jpg

③登って行くと二ノ丸虎口へ到着。画面右は二ノ丸、正面は櫓台、左は二ノ丸橋となっている。

山中城016二ノ丸門.jpg

④二ノ丸櫓台から、前線の西側を撮影。手前が二ノ丸橋、手前の曲輪は元西櫓、さらに、西ノ丸、西櫓と曲輪が続く。

山中城019二ノ丸櫓台から二ノ丸橋.jpg

⑤二ノ丸橋、元西櫓、西ノ丸へと進む。西ノ丸から土塁で囲まれた西櫓を撮影。

山中城024西ノ丸物見台から西櫓.jpg

⑥西ノ丸西側の畝堀を撮影。この先端奥に西櫓がある。

山中城026西ノ丸西畝堀.jpg

⑦西櫓の西先端部を外周路南側から撮影。西櫓の周囲に畝堀を廻らせている。画面左に富士山が見える。

山中城028西櫓西畝堀.jpg

⑧外周路北側から西ノ丸と西櫓の間の障子堀を撮影。山中城最大の見所。

山中城035西櫓・西ノ丸間障子堀.jpg

⑨北側の外周路を通り、北ノ丸経由で本丸へ。本丸の天守台(天守があったわけではない)から本丸内部を撮影。

山中城045天守台より本丸内部.jpg

⑩本丸から二ノ丸へ。本丸と二ノ丸の間の本丸西橋を撮影。

山中城049本丸西橋.jpg

二ノ丸から箱井戸へ下って、三ノ丸にある宗閑寺境内にある北条方・豊臣方の武将の墓に手を合わせて、城を後にする。100名城スタンプと寒ざらし団子は、山中城跡案内所・売店で。三島駅行きのバス停は少し下った駐車場の端にある。13時40分発の東海バスに乗車、帰りは車内も道路も混んで三島駅到着は14時30分頃となる。14時50分発の新幹線で帰途についた。

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興国寺城 2019.4.13 [静岡県]

2019年4月13日(土)。石垣山城の次の目的地は、沼津市の興国寺城。伊勢宗瑞(北条早雲)が今川家のもとで1488年頃、城主となった城として有名。その後、今川氏・北条氏・武田氏の争奪戦の渦中に置かれ、1582年からは徳川家康支配下、1590年からは駿府城に入った中村一氏支配下、関ヶ原の戦い後に徳川譜代の天野康景が城主となったが1607年に部下の盗人殺害事件(盗人は天領農民だったため訴訟)の責任を取り出奔したため廃城となった。

こだま655号の車内で小田原駅で購入した鯛めしを味わい、13時21分三島駅着。JR東海道線に乗換え、13時43分原駅に到着。ここから徒歩で、愛鷹山から突き出ている尾根(舌状台地?)を利用して築かれた興国寺城を目指す。14時17分頃、堀跡とされる弁天池に到着。このあたり道路を挟んで往時は三の丸であった。構造としては、北から南へ、北曲輪、本丸、二の丸、三の丸の順に配置されている。

①弁天池。この奥が城跡。

興国寺城001三の丸前の池.jpg

②道路を横断した側の三の丸。画面左に富士山が見えるところ少し雲に隠れている。

興国寺城002三の丸.jpg

③さらに進んで二の丸へ。

興国寺城004二の丸.jpg

④さらに進んで本丸へ。本丸の奥に穂見神社があり、そこに設置されている続100名城スタンプと興国寺城跡パンフレット(沼津市文化財センター)を入手。本丸奥の台地状のところに伝天守台がある。

興国寺城005本丸.jpg

⑤本丸奥の台地上の伝天守台へ登る途中に伝天守台石垣が残っている(石垣はこの箇所だけ)。

興国寺城006天守台石垣.jpg

⑥伝天守台から本丸東土塁を撮影。本丸は東と西の土塁で守られている。

興国寺城009本丸東側土塁.jpg

⑦伝天守台から本丸西土塁を撮影。

興国寺城023本丸西土塁.jpg

⑧台地の北側は、大空堀となっている。興国寺城最大の見所。この北側は北曲輪でその中をくり抜いて新幹線が通っている。

興国寺城010本丸北空堀.jpg

14時45分頃、下城。原駅15時21分発、三島駅15時37分着、三島駅発15時50分のこだま658号で帰途につく。三島駅ではお土産に港あじ鮨を購入。本日、石垣山城と興国寺城あわせて23,776歩を記録。



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