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小幡城 2022.12.21 [茨城県]

深い広幅の空堀をめぐらす、茨城県の代表的中世城郭遺構である小幡城を訪れたのは20221221日(水)のこと。都内から常磐線で水戸駅まで行き、水戸駅北口6番のりば関鉄グリーンバス(茨城空港行き)1200発、秋葉バス停1244着。ここから北西方向へ20分ほど歩くと城跡に到着する。
①城跡南面。城跡は舌状台地の東端に位置する。手前の田圃の標高は12m、城跡の標高は2030mで西側が高くなっている。
小幡城103南面.jpg
②入口の案内図。曲輪名称を「二の郭」のように数字で表記しているが、研究者によって付け方が異なるので方位で表記(南郭など)したほうが良いと思う。また、曲輪の形状はかなりデフォルメされている。
小幡城109案内図2.jpg
③空堀入口。城跡の北側にあたる。
小幡城110入口.jpg
④空堀の十字路。左折が指定ルート、直進は六の郭の東空堀~南空堀へ(通行止め)、右折は六の郭の北空堀へ(通行止め)。指定ルート以外の空堀には柵が設けられて通行止めとなっている。
小幡城113六郭東堀.jpg
⑤指定ルートに沿って左折して二の郭の西空堀に入り右折・南進する。
小幡城116二郭西堀へ.jpg
⑥二の郭西空堀。左側が二の郭、右側は五の郭から伸びている尾根状の土塁ライン。
小幡城119二郭西堀.jpg
南進して右にクランクすると本丸北空堀に入る。
⑦本丸の北空堀三叉路。右折が指定ルート、左折しても本丸に至る。
小幡城124本丸北堀前.jpg
指定ルートを西進し、堀底から坂道を登ると櫓跡と呼ばれる高台に出る。
⑧櫓跡。本丸西側の五の郭から東に伸びる帯曲輪の一角にある。
小幡城165櫓跡.jpg
指定ルートでは再び堀底へ降りるのだが、ここでは櫓跡から帯曲輪を西に進み五の郭に入る。五の郭の藪を西進、土橋を渡り馬出状の郭に入り西虎口までたどりつく。
⑨西虎口。この先は林になっており五の郭に引き返す。
小幡城176馬出西虎口.jpg
⑩五の郭・四の郭間の土橋を五の郭側から撮影。この細長い土橋も見所の一つ。五の郭から土橋を渡って四の郭へ入り、四の郭から本丸へ入るのが城道だったと思われる。
小幡城170五郭・四郭間土橋.jpg
⑪本丸内の井戸跡と土塁。本丸内側の高い土塁も見所の一つ。
小幡城149本丸内.jpg
指定ルートの本丸東側空堀経由で入口まで戻る。
帰り道は、西進し東関東自動車道を跨いで新小幡バス停へ。関鉄バスで新小幡1435発だが実際は1445であせったが、最終区間で取り返し石岡駅1505着のところ実際は1510(バスの予定ダイヤは最終区間に余裕を持っているので途中10分遅れでも最終区間で5分取り返す)、石岡駅15:15発の常磐線「ときわ72号」に間に合った。路線バスは最終区間にバッファーを持っていることに気づいた。
[メモ]小幡城は15世紀に小幡氏(大掾氏の一族)によって築かれたとされ、16世紀には水戸の江戸氏の支配下となり大掾氏や小田氏に対する境目の城だったと考えられている。1590年、秀吉権力下に入った佐竹義宜によって江戸氏が滅ぼされると佐竹氏支配下となり、1602年の佐竹氏の秋田移封後は廃城となった。現在は茨城町指定史跡。



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油山寺 2022.12.1 [静岡県]

「目の霊山」の油山寺(ゆさんじ)には掛川城と横須賀城からの移築建物が現存しているので、城めぐりからもはずせない。袋井駅北口からお寺近くまでは袋井市自主運行バスの北部循環線(平日のみ、10人乗り)があるが、時間帯があわないのでタクシーで行くことに(所要時間10分)。
①入口の山門(重要文化財)。もとは掛川城の大手二の門(掛川市『掛川城のすべて』1996年によると大手筋三の門または玄関下御門・・・二の丸御殿下の南東側の門)で1659年に創建されたもの。廃城後に寺に移築され、その後改変されたが、1971年の大修理により元の姿に復元されたとのこと。妻側一階部分に屋根がないのは掛川城では門脇の土塁(または石垣)上に付櫓が接続していたためと思われる。
油山寺104山門.jpg
紅葉時期なので参道の人通りは多く賑わっている。
②本坊方向への参道から左折して三重塔や薬師本堂のある天狗谷方向への参道を進む。
油山寺108参道.jpg
るりの滝から先は石段を上り、三重塔に到着する。
③三重塔(重要文化財)。天正年間に起工したが中断、久野城城主の久野宗成が1611年に完成させたもので、1969年に解体修理されたとのこと。
油山寺113三重塔.jpg
④さらに石段を上り薬師本堂(静岡県文化財)にお参り。
油山寺115薬師本堂.jpg
⑤本坊方向に戻り、書院(静岡県文化財)へ。もとは横須賀城の書院として1699年に創建され、1859年に寄進により移築されたもので、1979年に創建当初の姿に復元修理されたとのこと。内部拝観できるのだが、時間の都合で内部見学は割愛し退去。
油山寺116書院.jpg
[メモ]本記事の解説部分は現地説明板のほか油山寺ウェブサイト、静岡県ウェブサイト「しずおか文化財ナビ」によりました。



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横須賀城 2022.12.1 [静岡県]

寒気が流れ込む2022121日(木)、玉石積み石垣で有名な横須賀城を訪れる。都内から新幹線で掛川駅へ、東海道本線に乗換え袋井駅へ。駅南口から秋葉バスで20分ほどの七軒町バス停で下りる。バス停の東方向が南外堀跡となる。
①西大手門跡と南外堀跡。画面左手の生垣付近が西大手門跡、その右隣は西櫓跡、芝生部分は南外堀跡。現在の道路(県道)はかつての土手、その外側は内海(潟湖)だったが、1707年の宝永地震で干上がったようだ(掛川市ウェブサイト「横須賀城下町をブラタモリ的に歩く」に宝永地震前の地図が掲載されている)。
横須賀城101南外堀.jpg
しばらく東方向へ歩き、左折して小道に入り東進すると西の丸南面、そして本丸南面が見えてくる。
本丸南面下の広場に城跡の詳しい案内が掲示されている。
②本丸南面石垣。下から見上げる。
横須賀城143本丸南面.jpg
上から見おろす。
横須賀城152西の丸から南面.jpg
石垣は三段構造となっている。一段目は南側に突き出た本丸と西の丸の台地のあいだを埋めるように築かれており、二段目・三段目は一段目の石垣で築かれた曲輪から本丸・西の丸へ登る斜面に築かれている。廃城後、大半が失われていた「玉石積み」石垣は、発掘調査に基づき19941996年度に復元整備工事が行われ現在の姿になっている。
本丸へ登るのは後にして三日月池へ。
③三日月池(堀)。本丸南東斜面の崖下にあり、初期の内堀の残存と考えられている。
横須賀城111三日月池.jpg
さらに東進し、東大手門跡(標柱のみ)を経て三の丸跡へ。
④三の丸跡。本丸・北の丸の東側にあり、戦後の高度成長期に工場用地となっていたが2004年に公有地化され、2021年に発掘調査が行われた。画面手前左付近が太鼓櫓跡、右の舗装路面付近が東外堀跡、正面の山が松尾山(標高26m)、右奥の山が敵さい山(標高33m)。
横須賀城112三の丸.jpg
三の丸跡から北の丸へ。
⑤北の丸からの本丸北東面。山裾を急傾斜に削った切岸、高低差は最大9mほど(本丸標高23m、北の丸標高14m)ある。
横須賀城116北の丸から本丸.jpg
⑥松尾山。城の北東隅にあり築城当初の拠点と考えられている。
横須賀城119松尾山.jpg
山頂部の池と多聞櫓台跡。多聞櫓台跡から北東隅の崖を見おろすと敵さい山との間の堀切跡(空堀跡)を見ることができる。
横須賀城121松尾山山頂.jpg
いよいよ本丸に登り、北側の天守台跡へ。
⑦本丸天守台跡。発掘調査に基づき、土塁、礎石、石垣が復元されている。土塁に建物の一部が載る構造と想定(服部英雄「史跡における建物復原の問題点」1994年)される。2020年に発見された古図面には層塔型の四層(四階)+土塁接続階の五階建て天守が描かれている(本丸南面下の広場に掲示)。
横須賀城134天守台.jpg
本丸から西の丸へ入り、西の丸西側の出入口から降りる。
⑧西の丸西虎口。西の丸から中段の曲輪で折れて下の曲輪に降りる構造となっている。
横須賀城155西の丸西虎口.jpg
米蔵跡のたたき製防火水槽を見たあと、さらに西に進み、二の丸跡へ。
⑨二の丸と北外堀跡。二の丸跡の北側に北外堀跡が残されている。
横須賀城162北外堀跡.jpg
城跡の北西側にある撰要寺山門を見に行く。
⑩撰要寺山門(掛川市文化財)。撰要寺は横須賀城を築城した大須賀康高の創建によるもので歴代城主の庇護を受けた。この山門は、廃城時に城の北西隅にあった不開門(あかずのもん)を移築したもの。
横須賀城166撰要寺山門.jpg
1時間ほどで城跡をほぼ一周、バスで袋井駅に戻り次の目的地:油山寺をめざす。
[メモ]横須賀城は、1578年に高天神城奪還のため徳川家康が家臣の大須賀康高に築城させたのが始まりで、その後、遠江南部の拠点として拡張整備されました。明治維新後は廃城となり土地・建物等は民間に払い下げられましたが、1981年に遺跡保存のため城跡一帯が国史跡に指定され、現在ではご覧の通り美しく整備されています。本記事の解説内容は、おもに現地の説明板によりました。掛川市「令和3年度史跡横須賀城跡三の丸確認調査報告会資料(R4.1.21)」を利用して今回の歩行ルート(オレンジ色)を表示します。
横須賀城歩行ルート2.jpg



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