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周山城 2023.4.10 [京都府]

周山城は明智光秀が丹波国の東端、現在の京都市右京区の京北地域に築いた山城で、四方に伸びる尾根筋に曲輪群が築かれている。大きくは土造りの西城と石垣造りの東城に分かれており、今回は、石垣造りの東城を訪れる。
京都駅前11時発のJR西日本バス周山行きに乗り、周山城跡に向かう。このバス路線の途中には立命館大学・龍安寺・仁和寺などがあり車内混雑(このため定刻より10分ほど遅れる)していたが、周山街道に入ると閑散となった。1230分頃、京北合同庁舎前バス停で降りて、隣接する道の駅ウッディ京北で「周山城址を守る会」のパンフレットをいただく。その案内ルートにしたがって登城。ウッディ京北は標高245m、周山城主郭の標高480mなので高低差235mあるが、京都一周トレイル京北コースでもあり、北東尾根の曲輪(標高350m)の手前付近から視界が開けてくるので気分的にも登りやすい。
①南東尾根の曲輪(鍛冶屋)の手前を過ぎたあたり(「本丸まで500m」)で眺望が開けてきて、周山街道(京都と若狭を結ぶ)を見おろすことができる。
周山城110周山街道.jpg
②東尾根の南斜面の山道を登り、右折して東尾根の曲輪(兵糧蔵)虎口へ。虎口の両脇には石垣遺構が残っている。曲輪の南斜面や虎口下にも石垣遺構が見えるので、曲輪の周囲に石垣が築かれていたと思われる。
周山城115東尾根曲輪虎口.jpg
③さらに、尾根の南斜面の山道を登り、右折して主郭東隣の曲輪(二の丸)南虎口へ。こちらも虎口の両脇や郭南斜面に石垣遺構が残っており、曲輪の周囲に石垣が築かれていたと思われる。
周山城125主郭東曲輪南虎口.jpg
④主郭東隣の曲輪(二の丸)から主郭(本丸)への通路の両脇には石塁遺構が残っている。
周山城129主郭東石塁通路.jpg
⑤石塁通路を登って主郭東虎口に入る。枡形虎口だったとされ、石列遺構もL字形に残っている。
周山城134主郭東虎口.jpg
⑥主郭のまん中に天守台と考えられている遺構が残っている。中央部が凹んでいる穴蔵構造で、入口(開口部)は三箇所ある。
周山城139天守台北面.jpg
⑦主郭北側の虎口(搦手口)から主郭西側へ下って行く。主郭西面には三段の石垣が築かれているとされるが、中央に見えるのが二段目の石垣と思われる。手前の石垣は虎口の石垣と思われる。
周山城155主郭北通路.jpg
⑧「壮大な石垣①」の案内に導かれて西斜面へ進むと、残存状態の良い主郭西面最下段の石垣が見えてくる。
周山城167西側石垣.jpg
⑨戻ってさらに西尾根方向の曲輪(小姓曲輪)へ進み、「壮大な石垣②」の案内に導かれて行くと残存状態の良い西尾根北面石垣が見えてくる。
周山城189西端石垣.jpg
⑩隅角部の算木積みは初期段階のようで、野面積みの石材の隙間も大きい。
周山城195西端石垣.jpg
さらに西へ進むと西城に至るが、ここで引き返して下山、15時頃にウッディ京北に戻る。4月上旬の晴天ということもあるが、思っていたより山道が整備されていて快適な山城歩きでした。
[メモ]周山城は、天正9年(1581年)には存在した記録が残っており、山崎の合戦による明智氏滅亡(1582年)後、しばらくして廃城となったようだ。2017年に京都市による航空レーザー測量と現地踏査が行われ、山城の全貌が明らかになりつつある(『京都市内遺跡詳細分布調査報告平成29年度』による)。



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岩櫃城 2023.4.4 [群馬県]

岩櫃(いわびつ)城は、名胡桃城・沼田城と同じく真田氏ゆかりの城で、ともに群馬県から続日本100名城に選定(2017年、日本城郭協会による)されている(2016年の大河ドラマ「真田丸」の影響か)。JR吾妻(あがつま)線群馬原町駅→岩櫃城跡→岩櫃山→潜龍院跡→郷原駅のルートをたどってみた。「岩櫃山周辺ガイドマップ」(東吾妻町)によると郷原駅→岩櫃山→群馬原町駅のコース時間は2時間40分とあるが、山頂には登らず休憩時間を加えて3時間を目標タイムに設定。
①群馬原町駅跨線橋から岩櫃城方向(南西方向)の景観(1150分、標高364m)。
岩櫃城101群馬原町駅より.jpg
②途中、不動滝に寄り道。
岩櫃城103不動滝.jpg
このあと平沢登山口観光案内所へ到着し休憩(1240分、標高511m)。
③城跡の「中城」という曲輪への道。空堀跡なのだろうか。
岩櫃城109中城へ.jpg
④「中城」から主郭(本丸)への道。ここも空堀跡と思われる。
岩櫃城118中城南堀.jpg
⑤主郭南斜面竪堀を見上げる。
岩櫃城125本丸南下竪堀.jpg
⑥主郭南下の堀切。この先が竪堀となっている。
岩櫃城126本丸南下横堀.jpg
⑦主郭から南斜面竪堀を見おろす(1310分、標高594m)。
岩櫃城128本丸南下竪堀.jpg
⑧主郭から南西へ「尾根通り」と呼ばれる尾根道を登り始める。
天狗岩まではトレッキングという感じで順調。岩櫃城138天狗岩.jpg
この先からは、岩場・急斜面が続き、トレッキングというより登山に近い険しさ。
岩櫃城140尾根通り.jpg
6合目(赤岩通り分岐)まで登り(1340分頃、標高680mくらい)、あとは下山することに。急登で険しい「赤岩通り」からの下山は回避して迂回ルートの「十二様通り」から下山したが、こちらも落ち葉の積もった急斜面続きで気が抜けない。郷原城跡にたどり着いて一安心(1410分頃)。
⑨潜龍院跡。真田昌幸が織田・徳川軍に敗れた武田勝頼を迎えるため三日で造った御殿跡とされる。その後、真田昌幸の一族の根津潜龍斎という山伏が拝領して寺としたと説明書きにある。
岩櫃城147潜龍院跡.jpg
⑩密岩神社から岩櫃山南面(山頂802.6m)。
岩櫃城153岩櫃山.jpg
そして1440分頃、郷原駅到着。無事、JR吾妻線経由で帰路につくことができた。
[メモ]岩櫃城は、岩櫃山の東中腹に位置している。西上州攻略をめざす武田信玄のもとで真田幸隆が城主となり(1563年頃)、その後も真田氏の支配下にあったが、1614年に廃城となったようだ。2019年、城跡は国史跡に指定された。



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沼田城 2023.3.30 [群馬県]

後閑駅からJR上越線で沼田駅へ。
①沼田駅に隣接する跨線橋からの沼田城跡の景観。沼田城は利根川左岸の段丘北西隅に立地(標高410mくらい)している。駅前の標高は330mくらいなので高低差80m、急勾配の坂道は歩いた方が実感できるのだろうが、易きにつき関越交通のバスで登ることとする。
沼田城102遠景.jpg
沼田城は、真田昌幸が1580年に攻略、真田信之の城主時代(15901616年)に天守を備えた近世城郭に整備されたが、1681年の真田信直改易後に全て破却されてしまい、その後は、堀と土塁が再建され、三の丸に藩邸が建てられる程度にとどまり、近代には公園として整備されたので、目に見える遺構は多くはない。

②本丸南東隅あたりの景観。画面左の林が本丸南東隅(巽櫓台跡)、その周囲は本丸堀跡、画面右の小高い丘は本丸大門前の曲輪(馬出)跡、手前の広場(テニスコート跡地)の上辺は堀跡で2020年度に発掘調査(変色している箇所がトレンチ箇所と思われる)が行われ、大量の瓦片が出土している。
沼田城123馬出郭前.jpg
③本丸東堀石垣跡。さきほどの本丸南東隅と本丸大門前の曲輪(馬出)との間の堀にあたり、2015年度の発掘調査により石垣の残存部分が検出された。正保城絵図によると本丸東面のみ石垣が築かれていた。
沼田城121本丸東堀.jpg
④天守台跡。本丸北東隅に五重の天守が築かれていたが石垣を含め破却され、現在は小高い丘が残るのみ。2016年度に周辺の発掘が行われたが、石垣自体は検出されなかった。
沼田城118天守台.jpg
⑤本丸北西隅の西櫓台跡(乾櫓跡)の南東面石垣。正保城絵図によると西櫓周囲に石垣は描かれていないが、現実の遺構としては石垣が残存している。櫓台上の桜(ヒガンザクラ)は御殿桜と呼ばれている沼田城跡のシンボル的老木。
沼田城107西櫓台.jpg
⑥西櫓台跡南西面石垣。現在は、桜の枝の落下や石垣の崩落のおそれがあるため立入規制されている。御殿桜の枝は支柱で支えられており、かなりの樹齢(推定樹齢400年とされる)と思われる。
沼田城106西櫓台.jpg
⑦鐘楼。城跡の遺構ではないが、公園のシンボル的存在。
沼田城114鐘楼.jpg
⑧段丘北西崖上の捨曲輪(古城)からの名胡桃城方向の眺望。
沼田城117名胡桃城方向.jpg
帰りは関越バスで上越新幹線上毛高原駅まで戻り帰路についた。
[メモ]公園(城跡)南側の沼田市観光案内所には沼田城の復元模型が展示されている。案内所で入手したパンフレット『発掘された真田の城 沼田城跡』によると、現在、沼田市では城跡の調査・保存整備事業を進めており、史跡の上位指定(現在は沼田市指定史跡)を目指している。


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名胡桃城 2023.3.30 [群馬県]

桜開花が各地に広がる3月末、真田氏ゆかりの名胡桃(なぐるみ)城(群馬県みなかみ町)と沼田城(群馬県沼田市)を訪れる。上越新幹線で上毛高原駅下車、タクシーで名胡桃城址案内所前まで行く(歩くと3.8km50分くらいか)。名胡桃城は利根川右岸の段丘に立地、東は段丘崖、南北は谷になっている。現在は、国道17号線が西端を横断しているが、道路東側の主要郭部分は19922000年度にわたる発掘調査の成果に基づき、天正年間(15731592年)後半時期の姿に整備(土塁の一部復元、木橋設置、平面表示など)されている。
①三郭前の景観。三郭虎口前には丸馬出跡が検出されたが、埋め戻されて地面表示されている。三郭の土塁は復元されていない(二郭側以外には土塁跡が検出されている)。
名胡桃城101三の郭前.jpg
②般若郭方向の景観。谷を隔てた北西側(画面左上)は、現在は駐車場となっている般若郭跡。
名胡桃城105般若郭.jpg
③三郭を北東方向へ進み、木橋を渡り二郭南虎口へ。虎口の左右で堀切と土塁の位置が前後する喰違虎口となっている。
名胡桃城109二の郭虎口.jpg
④二郭を北東方向へ進み、二郭北虎口を土塁上の見学台から見おろす。枡形虎口となっている。南北の虎口が二郭を防御する構造となっている。
名胡桃城115二の郭北虎口.jpg
⑤二郭北虎口から木橋を渡り本郭へ。本郭の周囲には土塁跡が検出されている。
名胡桃城119本郭堀切.jpg
⑥本郭を東方向に進むと、堀切の向こう側が、ささ郭。ささ郭は通路の両側に土塁が残っており、先端部に搦手門跡が検出されている。
名胡桃城122ささ郭堀切.jpg
⑦ささ郭搦手門跡から南東(沼田)方向の眺望。真田昌幸が沼田城攻略の拠点として1579年頃に名胡桃城を築いたとされる。
名胡桃城124沼田方向.jpg
三郭前まで戻り、沼田に向かうため、国道17号線経由でJR上越線後閑駅まで歩いて行く(2.7km35分くらい)。
⑧途中で撮影した城跡南崖。南は谷川(湯舟沢)に浸食された崖となっている。
名胡桃城127東面.jpg
[メモ]名胡桃城は、1589年に豊臣秀吉による北条氏と真田氏との領地裁定で真田領となったが、北条方が不法攻略したことにより、秀吉による北条氏攻略が始まったことで知られている。1590年の北条氏降伏後は廃城となったようで、現在は群馬県指定史跡となっている。現地の案内板による発掘内容の解説・復元想像図が充実しているので往時の姿が想像しやすい。



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