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長浜城 2023.6.5 [滋賀県]

6月5日、竹生島クルーズ前後の時間を利用して、羽柴秀吉が1574年に居城とした長浜城の遺構を訪ねます。JR長浜駅のすぐ西側が長浜城跡ですが、地表面の遺構はほとんどありません。1615年に廃城となった際、建物や石垣の大半は彦根城の第二期築城工事に利用されたためのようです。発掘調査により石垣や建物跡の遺構が見つかっていますが、埋め戻されています。現在、建っている天守風の建物は1983年に建設された長浜城歴史博物館ですが、当日は臨時休館日で入館できませんでした。
①水没している太閤井戸跡。本丸の井戸跡とされ、天正地震で沈降したのかもしれない。渇水期には姿を現すようですが、梅雨時なので表示の柱のみ見えます。
長浜城102井戸跡.jpg
②天守台跡。小高い丘は天守台跡とされています。
長浜城103伝天守台跡.jpg
③長浜城歴史博物館。手前の石は発掘された石垣根石の展示です。
長浜城105長浜城歴史博物館.jpg

次いで、長浜市街地を廻って長浜城からの移築門とされる遺構を訪れることにします。
④大通寺台所門(長浜市指定文化財)。薬医門形式です。
長浜城111大通寺台所門.jpg
大通寺台所門は長浜城大手門であったと伝わっています。お寺の説明書きによると、大通寺は長浜城の一廓に長浜御坊と称して創立され、大手門を御坊の門としていたが、1606年(または1639年)に現在地に大通寺が移転されたときに門も移築されたという。彦根城の天秤櫓(こちらは櫓門)も『井伊年譜』に長浜城大手門を移築した旨、記されており、鬼瓦には藤紋(内藤家)が認められる(中井均『彦根城を極める』)。1606年から長浜城主となったのは内藤氏なので、大通寺に移築したあとに内藤氏が築いた大手門を彦根城に移築したものと考えられます。一方、大通寺に移築された大手門は山内一豊城主時代の天正地震(1586年)被災以降に築かれたものと思われます。
⑤知善院表門(長浜市指定文化財)。本来は棟門形式のようで、控柱は追加されたものらしい。
長浜城120知善院表門.jpg
知善院表門は長浜城の搦手門であったと伝わっています。秀吉の朱印状や淀殿の手紙もお寺に残っているので移築
の可能性は高いと思います。

[追記]1590年に山内一豊が長浜城から掛川城へ転出してから1606年に内藤氏が長浜城主として転入するまでの間、長浜城がどうなっていたかは良く分かっていない。『長浜市史』によると、一豊転出後の長浜は豊臣家の蔵入地(直轄領)となったようで、長浜城の天守は壊され事実上、廃城となったらしい。関ヶ原の戦い後は、徳川家の蔵入地になったようだが、1606年、家康の命で長浜城が大修築され内藤氏が城主となった。一方、長浜御坊大通寺は1596年に長浜旧城内に会所を設けて長浜御堂と称して始まり、1606年の内藤氏入城後は城の南に移転した後、寛永年間(162444年)に現在地に再移転したらしい。大通寺台所門の説明書きに二つの年代が記載されているのは移転が2回あったためのようです。


 



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竹生島 2023.6.5 [滋賀県]

梅雨の晴れ間の65日、豊臣大坂城の建物遺構が唯一残る竹生島を訪れることに。新幹線から米原駅経由で北陸本線長浜駅下車、長浜港から事前に予約していた竹生島クルーズ(長浜港からの往復航路)に乗り込みます。35分の航海で竹生島港に到着、滞在時間は90分とたっぷりあります。
①クルーズ船。
竹生島132クルーズ船.jpg
②竹生島南東面。
竹生島111近景.jpg
拝観チケット購入後、石段を上まで登り宝厳寺本堂(弁才天堂)、さらに登って三重塔と宝物殿、別の石段を下って、宝厳寺唐門(国宝)・観音堂(重要文化財)・船廊下(重要文化財)、都久夫須麻神社本殿(国宝)、龍神拝所を廻るのが定番散策コース。このうち、豊臣大坂城の遺構は唐門から。
③唐門・観音堂・船廊下の連なり。20132020年に檜皮屋根の全面葺き替え、彩色・漆塗りの塗り直し、及び飾り金具の鍍金メッキ仕上げを主な内容とした修理保存事業が行われました。
竹生島114唐門・観音堂.jpg
④唐門正面。修理保存事業により豪華絢爛な色彩がよみがえっています。
竹生島115唐門.jpg
唐門は、当時の日記や絵画から、もともとは豊臣大坂城の内堀北側に架かる極楽橋(廊下橋)の入口の門で、1600年に京都の豊国廟に移築されたのち、1602年に竹生島に移築されたと考えられています。観音堂は1603年には完成したと考えられていますが、永禄期の再建堂の改造か、移築か、新造か、はっきりしていないものの、移築の可能性が高いとされています。
⑤船廊下(渡廊)内側。
竹生島120船廊下.jpg
⑥船廊下(渡廊)外観。
竹生島124船廊下.jpg
船廊下は豊臣秀吉の御座船「日本丸」の舟櫓を利用して建てられたと伝わることから船廊下と呼ばれていますが、両端部に唐破風造りが残っていること等から唐門同様にもともとは豊臣大坂城の極楽橋の廊下橋だった可能性が指摘されています。
⑦都久夫須麻神社本殿。明治期の神仏分離令により宝厳寺本堂(弁才天堂)から神社本殿となりました。
竹生島129本殿.jpg
この建物は1567年(永禄10年)に再建されたもので、中央の身舎(もや)部分=入母屋屋根部分は1602年に移築され既存建物と組み合わされました。移築元は、古くは伏見城からといわれていましたが、現在は豊国廟からの移築、さらには豊臣大坂城の極楽橋の廊下橋の二階望楼(櫓)部分の移築の可能性が指摘されています。身舎部分は薄暗いので内部をじっくり鑑賞するのはちょっと難しいのが残念。

[メモ]本記事の解説内容は、宝厳寺ウェブサイト及び木村展子「建造物の変遷と現存建築」(竹生島奉賛会『竹生島』2017年所収)によりました。



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