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小田城 2023.11.8 [茨城県]

近年、中心部の土塁・堀などが復元整備された、つくば市にある小田城を118日に訪れました。都内から常磐線で土浦駅へ、土浦駅西口からバス(関東鉄道グループ)で宝篋(ほうきょう)山入口下車。バス停から南西方向にしばらく歩くと東曲輪東面が見えてきます。
東曲輪東面。「東曲輪」(パンフレットの表記)は、本来は本丸(曲輪Ⅰ)周囲の北側から東側へ続く曲輪Ⅱの一部です。このあたりは草が生い茂っています。
小田城101東曲輪東面.jpg
さらに進むと本丸北東隅の突出部が見えてきます。
本丸北東隅。隅の突出部は「鐘撞堂」と呼ばれる高台になっています。周囲の土塁・堀は、城郭最終段階(戦国時代末期)の佐竹氏支配時期(15691602)の姿で復元整備されたものです。大変きれいに刈り込まれています。
小田城102本丸北東隅.jpg
本丸北の土橋を渡って北虎口から内部へ入ります。城郭最終段階の堀底は現在の復元より2mほど深く障子堀構造になっていました。
小田城106本丸北面.jpg
本丸の北側には城郭最終段階には角馬出があった(草地部分)ようです。
小田城109本丸北土塁上より北方向.jpg
北側から本丸内部を撮影。南北に大溝が再現され、北西側に建物群の跡が表示されています。南東側には東池(小田氏居城時期)が再現されています。なお、発掘した遺構は約1mの盛土で保護し、その上に建物跡や池や大溝などが再現表示されています。
小田城108本丸内中央.jpg
本丸東堀。このあたりは湿地になっています。
小田城111本丸東堀.jpg
本丸南東隅。「涼台(すずみだい)」と呼ばれる高台になっています。標高は14mほどの城内最高所、人工的に積み上げられたものでしょうか。ここには古城の雰囲気があります。
小田城118涼台.jpg
本丸南西虎口。この虎口は城郭最終段階に造られたとされ、周辺からは石垣遺構が確認されています。遺構保護のため1mほど盛土されて石垣が再現されています。背景の左側は筑波山、右側は宝篋山。
小田城127南西虎口.jpg
南西虎口前面の南西馬出曲輪。これも城郭最終段階に造られたもの。佐竹氏支配時期には馬出が多用され防御力が一段と強化されています。対小田原北条氏、または、対徳川氏を意識したものでしょうか。
小田城122南西馬出.jpg
本丸北西隅の遺構展示室。もとは本丸跡を横切っていた線路(関東鉄道および筑波鉄道の筑波線)の跡のようですが、土塁断面の遺構の変遷を表示しています。
小田城136北西隅.jpg
このあと、小田城跡歴史広場案内所に行き、各種パンフレットを入手、展示は小田氏に関するものが大半となっています。
[メモ]小田城は、鎌倉時代から戦国時代まで常陸国南部を支配した小田氏の居城として拡張され、1569年以降は佐竹氏が奪取し防御力を強化する改造を行いましたが、1602年の佐竹氏の秋田転封後に廃城となりました。南北朝時代に北畠親房が在城中に「神皇正統記」を著わしたこともあり1935年に国史跡に指定されています。つくば市では1997年度から本丸跡の発掘調査を行い、発掘調査成果をもとに本丸跡とその周辺を2009年度から「小田城跡歴史ひろば」として復元整備し20164月に開園しました。また、周囲の曲輪についても2009年度から2018年度まで発掘調査が行われました。



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守谷城 2023.5.2 [茨城県]

快晴の5月2日、つくばエクスプレス沿線の守谷城を訪れる。つくばエクスプレス守谷駅から20分ほど東方向へ歩くと城址公園南入口に到着する。
①城山西側の湿地。往時は水を湛えていたと思われる。画面右の森林は御馬家台(おうまやだい)曲輪。
守谷城103御馬家台前の湿地.jpg
②東進し御馬家台曲輪と二の曲輪のあいだを南北に貫く空堀に南側から入る。空堀入口付近の上に木橋が架かっていたとされる。
守谷城108二の曲輪西空堀.jpg
S字カーブを描く最大比高12m、総延長120mのV字形の薬研堀は最大の見所。
守谷城111二の曲輪西空堀.jpg
④御馬家台曲輪に登って南西隅の枡形虎口へ。西側の馬出曲輪から木橋を渡ってこの枡形虎口に入っていたとされる。
守谷城116御馬家台枡形虎口.jpg
⑤空堀に戻って北側に通り抜けて東進し、二の曲輪北の坂枡形虎口へ。
守谷城120二の曲輪北虎口.jpg
⑥二の曲輪に入って西端の土塁伝いに南西隅の枡形虎口へ。御馬家台曲輪から木橋を渡ってこの枡形虎口に入ったとされる。二の曲輪より一段低いので防御しやすくなっていた。
守谷城126二の曲輪南枡形虎口.jpg
⑦二の曲輪を東進し、土橋を通って楯(たて)形曲輪へ。
守谷城129楯形曲輪への土橋.jpg
下から見上げた二の曲輪と楯形曲輪とのあいだの空堀(南側)。正面が土橋。
守谷城140二の曲輪東空堀南.jpg
⑧細長い楯形曲輪。楯の形に見えるだろうか。
守谷城134楯形曲輪.jpg
⑨楯形曲輪と本曲輪のあいだの空堀はU字形で障子堀だったと伝わる。この上に引橋が架かっていたとされる。なお、本曲輪は昭和40年代に沼地干拓・耕地整理で土取されたため約6m低くなっており旧状はとどめていない。
守谷城138本曲輪西空堀.jpg
⑩本曲輪を迂回して東端の妙見曲輪へ。ここには妙見菩薩をまつっていた。
守谷城143妙見曲輪南.jpg
散策路が適度に整備されており、過度な遺構の復元ではなく自然環境と調和した史跡保全となっていることを実感した。
[メモ]守谷城は、茨城県守谷市の小貝川右岸の低湿地に突き出した舌状台地(標高20mくらい)に築かれた直線連郭式の城山地区と現在の守谷小学校付近一帯の城内地区に拡がっていた。千葉常胤の次男相馬師常を祖とする下総相馬氏が鎌倉時代あるいは室町時代に築いて居城としていたが、1567年の小田原北条氏との和睦条件により守谷城を足利義氏へ進上したことにより、北条氏による増改築工事が行われた。しかし、実際には義氏の入城はなく、北条氏の下に相馬氏が支配を続けた。1590年の徳川家康関東移封後は徳川家臣の菅沼(のち本姓に戻り土岐)定政が城主となり守谷藩が成立したが、途中、天領代官支配・他藩支配もあり、最終的に1682年以降は関宿藩領となり廃城となった。その後、城内地区は市街地化したが、城山地区の主要部分は古城として保存され守谷市指定史跡となっている。2020年には環境整理され説明板・案内板等が設置されて散策しやすくなっている。なお、本記事の解説内容は、現地説明板及び守谷中央図書館ウェブサイトの川嶋建・石井國弘『守谷城と下総相馬氏』(2022年)によりました。



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水戸城 2023.3.20 [茨城県]

水戸市の梅まつりが終わり、桜まつりが始まる直前、歴史的景観整備の進む水戸城跡を訪れる。
①水戸駅北口デッキからの復元された二の丸角櫓(すみやぐら)の景観。
水戸城101駅前北口から.jpg
中央のビルは解体撤去されそうなので、そうなればスッキリ見えることになる(ビル解体後にはどのように整備されるのだろうか)。水戸城は那珂川と千波湖に挟まれた舌状台地先端部(標高30m前後)に築かれている。西側の三の丸跡からスタートし東進、二の丸跡、本丸跡、最後に三の丸跡に戻り弘道館を見ることにする。

②水戸城パンフレットの江戸時代と現在の重ね地図によると、旧銀杏坂の入口付近の両側(右側は、現在、再開発予定の更地)には三の丸南の水堀があり、水戸京成ホテルの手前に三の丸南土塁・枡形虎口があった。
水戸城104旧銀杏坂.jpg
坂を登り切り左折して三の丸西空堀へ。
③三の丸西空堀。現在は茨城県三の丸庁舎前と茨城県図書館前の2箇所に土橋が設けられ土塁も切断されているが、江戸時代の絵図によると、長大な空堀と土塁が続いており両端に土橋と枡形虎口があった。
水戸城108三の丸空堀.jpg

弘道館北の梅林を通り、大手橋を渡り、二の丸大手門へ。
2019年に復元された大手門。二の丸西入口で門を入ると左折する内枡形虎口となっている。
水戸城118二の丸大手門.jpg
⑤景観整備された二の丸内の白壁塀通り。
水戸城123二の丸白壁塀.jpg
二の丸は、江戸時代には御殿・三階櫓などが設けられ水戸城の中心だったが、現在は幼稚園・小学校・中学校・高校の敷地となっており、行ける範囲は限定されている。水戸城跡二の丸展示館で復元模型などを見て、復元角櫓へ。
⑥復元角櫓への通路。県立水戸第三高校と小学校・幼稚園のあいだの細い通路を通り、二の丸南西隅の角櫓へ。
水戸城125二の丸角櫓への通路.jpg
2020年に復元された角櫓。
水戸城127二の丸角櫓.jpg
正保城絵図や二の丸展示館の復元模型とは入母屋破風の方向が異なるが、根拠があってのことと思われる。在来工法で復元された内部(一階部分)は見学できるが、標高があまり高くなく周囲のビルに囲まれているため、眺望は今ひとつ。そのかわり、二の丸北東の見晴台に行くと那珂川の眺望が広がる。

白壁塀通りに戻り東進、本丸へ向かう。
⑧本丸・二の丸間の堀切(空堀)。水戸城跡最大の見所だと思う。堀底をJR水郡線が通っている。
水戸城138本丸堀切.jpg
⑨本丸枡形虎口。本丸跡は県立水戸第一高校の敷地となっているが、薬医門(県文化財)までは入ることができる。
水戸城142本丸枡形.jpg
⑩薬医門の側面。本柱・控柱と屋根の位置関係がよく分かる。
水戸城147薬医門.jpg
この門は、佐竹義宣が城主時代の16世紀末に創建されたと考えられている。明治期以降城外に移築されていたが、1981年に現在地に移築・復元された。その際、屋根は茅葺きから銅板葺きになった。本来の位置は、本丸枡形虎口の入口だったと考えられている。

二の丸東南側の坂(柵町坂下門がある)を下りて、二の丸南崖下を通り、大手橋の下から階段を登って三の丸弘道館へ。弘道館は徳川斉昭が1841年に創設した藩校で特別史跡に指定されている。
⑪弘道館政庁(重要文化財)。
水戸城158弘道館政庁.jpg
政庁は試験や儀式の場に使用されたようで、書院造となっており、御殿のような雰囲気を感じる。内部見学の順路は決まっているが、撮影はもちろん、徳川慶喜が恭順謹慎した座敷に座ったりすることができる。



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小幡城 2022.12.21 [茨城県]

深い広幅の空堀をめぐらす、茨城県の代表的中世城郭遺構である小幡城を訪れたのは20221221日(水)のこと。都内から常磐線で水戸駅まで行き、水戸駅北口6番のりば関鉄グリーンバス(茨城空港行き)1200発、秋葉バス停1244着。ここから北西方向へ20分ほど歩くと城跡に到着する。
①城跡南面。城跡は舌状台地の東端に位置する。手前の田圃の標高は12m、城跡の標高は2030mで西側が高くなっている。
小幡城103南面.jpg
②入口の案内図。曲輪名称を「二の郭」のように数字で表記しているが、研究者によって付け方が異なるので方位で表記(南郭など)したほうが良いと思う。また、曲輪の形状はかなりデフォルメされている。
小幡城109案内図2.jpg
③空堀入口。城跡の北側にあたる。
小幡城110入口.jpg
④空堀の十字路。左折が指定ルート、直進は六の郭の東空堀~南空堀へ(通行止め)、右折は六の郭の北空堀へ(通行止め)。指定ルート以外の空堀には柵が設けられて通行止めとなっている。
小幡城113六郭東堀.jpg
⑤指定ルートに沿って左折して二の郭の西空堀に入り右折・南進する。
小幡城116二郭西堀へ.jpg
⑥二の郭西空堀。左側が二の郭、右側は五の郭から伸びている尾根状の土塁ライン。
小幡城119二郭西堀.jpg
南進して右にクランクすると本丸北空堀に入る。
⑦本丸の北空堀三叉路。右折が指定ルート、左折しても本丸に至る。
小幡城124本丸北堀前.jpg
指定ルートを西進し、堀底から坂道を登ると櫓跡と呼ばれる高台に出る。
⑧櫓跡。本丸西側の五の郭から東に伸びる帯曲輪の一角にある。
小幡城165櫓跡.jpg
指定ルートでは再び堀底へ降りるのだが、ここでは櫓跡から帯曲輪を西に進み五の郭に入る。五の郭の藪を西進、土橋を渡り馬出状の郭に入り西虎口までたどりつく。
⑨西虎口。この先は林になっており五の郭に引き返す。
小幡城176馬出西虎口.jpg
⑩五の郭・四の郭間の土橋を五の郭側から撮影。この細長い土橋も見所の一つ。五の郭から土橋を渡って四の郭へ入り、四の郭から本丸へ入るのが城道だったと思われる。
小幡城170五郭・四郭間土橋.jpg
⑪本丸内の井戸跡と土塁。本丸内側の高い土塁も見所の一つ。
小幡城149本丸内.jpg
指定ルートの本丸東側空堀経由で入口まで戻る。
帰り道は、西進し東関東自動車道を跨いで新小幡バス停へ。関鉄バスで新小幡1435発だが実際は1445であせったが、最終区間で取り返し石岡駅1505着のところ実際は1510(バスの予定ダイヤは最終区間に余裕を持っているので途中10分遅れでも最終区間で5分取り返す)、石岡駅15:15発の常磐線「ときわ72号」に間に合った。路線バスは最終区間にバッファーを持っていることに気づいた。
[メモ]小幡城は15世紀に小幡氏(大掾氏の一族)によって築かれたとされ、16世紀には水戸の江戸氏の支配下となり大掾氏や小田氏に対する境目の城だったと考えられている。1590年、秀吉権力下に入った佐竹義宜によって江戸氏が滅ぼされると佐竹氏支配下となり、1602年の佐竹氏の秋田移封後は廃城となった。現在は茨城町指定史跡。



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笠間城 2021.4.1 [茨城県]

今回は茨城県の山城、笠間城へ。上野から常磐線特急ときわ57号で友部駅に着いたのは202141日(木)1136分。1150分発の笠間観光周遊バスで日動美術館バス停125分着。途中、笠間城のある佐白山(さしろさん)の全景がよく見えたのだが撮影を忘れてしまった。佐白山は笠間盆地の東に位置し、標高205m(地理院地図)、バス停からは比高155mと適度な高さである。笠間城は、笠間氏が築いた中世山城を蒲生秀行の家臣蒲生郷成(城主15981601年)が石垣・天守を備えた近世山城に改造したとされる。浅野長直の城主時期(16321645年)にバス停のあたりに下屋敷を築いて御殿・藩庁を移転した後も山城の維持管理は続けられたが、明治維新後に廃城となり建物は撤去された。現在、本丸・天守曲輪跡は笠間市指定史跡となっているが、笠間市では国指定史跡をめざして測量調査など保存整備事業を実施している。まず、復元ジオラマなどを展示している「かさま歴史交流館」井筒屋を訪れ、詳細な測量図付のパンフレットを入手。そこから、東方向の佐白山をめざす。

①途中にある大黒石。鎌倉時代に佐白山にあった正福寺が徳蔵寺と争った際、山上から大黒石が転がってきて難を逃れたという伝説がある。お寺間の争いについては、13世紀前半に正福寺からの助力要請を受けた宇都宮頼綱が一族の時朝を派遣、時朝は徳蔵寺、次いで正福寺も制圧し、笠間氏初代となり佐白山に笠間城を築いたという伝承がある。

笠間城107大黒石.jpg

②空堀跡。佐白山の北隣山麓を廻る空堀で、正保城絵図にも空堀として描かれ山中には正福寺(明治維新後焼失し麓に移転)が描かれているが、戦国時代には砦もあったのでは。

笠間城108百坊跡空堀.jpg

③的場丸(千人溜)。道を右折すると的場丸、現在は駐車場となっている。的場丸を真っ直ぐ進むと大手門跡へ。

笠間城110的場丸入口.jpg

④大手門跡。空堀の前は枡形空間となっており、空堀を渡った所に櫓門(正保城絵図)があった。

笠間城116大手門跡.jpg

門を入った内側の斜面は石垣造り、土留のためだろうか。石垣造りの斜面を登ると帯曲輪に着く。さらに登ると中ノ門跡へ。

⑤中ノ門跡。斜面を登り右折して石段を上がったところが中ノ門跡。

笠間城121中ノ門跡.jpg

さらに登って二ノ門跡を経て本丸玄関門跡へ。

⑥本丸玄関門跡。門下には枡形状に石垣が築かれている。

笠間城125玄関門跡.jpg

⑦本丸内の土塁。本丸の南側に土塁が築かれておりその東端に八幡台櫓があった。

笠間城134八幡櫓台.jpg

⑧本丸側から天守曲輪入口を撮影。本丸東側から空堀を渡ると山頂の天守曲輪への登山道となる。

笠間城136天守曲輪へ.jpg

⑨天守曲輪の下段石垣。2011年の東日本大震災で石垣の一部が崩落、応急処置されシートで覆われた状態となっている。シートで覆われていない隅角部はきれいな算木積みとなっており江戸時代以降のものと思われる。

笠間城144天守曲輪1段目石垣.jpg

⑩天守曲輪の中・上段石垣。地山(花崗岩)の大石と割石が組み合わさった石垣で隅角部の算木積みは未完成なので蒲生郷成期のものかもしれない。

笠間城148天守曲輪2段目以上の石垣.jpg

⑪天守跡。独立峰の頂上に天守のみ築いているのは大変珍しいのでは(全国で唯一?)。古来、信仰の山だったので神聖な場所と意識してのことだろうか。二層の天守があったが、廃城後、築城以前に鎮座していた佐志能神社を戻し天守廃材を用いて拝殿を造ったとされる。

笠間城151天守台.jpg

下山して、歴史交流館前の通りを北へ700mほど歩いて真浄寺へ。廃城後に移築され仏堂として利用されている八幡台櫓が残されている。

⑫八幡台櫓。正面からの写真はよく見かけるので、斜め後ろから撮影。1969年に茨城県指定文化財となり1974年に解体修理が行われ現在の姿となっている。

笠間城161八幡台櫓.jpg

帰りは笠間駅1459分発の水戸線で友部駅に向かい常磐線で帰途についた。

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土浦城 2020.6.21 [茨城県]

都道府県をまたぐ移動自粛緩和直後の日曜日(2020年6月21日)、訪れたのは土浦城。日暮里駅から常磐線快速に乗り1時間ほどで土浦駅へ。駅から北西に1kmほど歩くと土浦城の本丸・二の丸に着く。霞ヶ浦に注ぐ桜川の自然堤防上の微高地に築かれた土塁造りの平城で、かつては城下町(総構)まで含めると4~5重の堀に囲まれていたが、現在残るのは本丸堀の大半と二の丸堀南西側のみ。築城は室町時代の若泉氏とされ、戦国時代には常陸国南部を支配した小田氏の家臣菅谷氏が城主だったが、徳川家康の関東移封後は結城秀康の支配地、17世紀以降は徳川譜代大名が城主となり近世城郭・城下町の整備が行われた。1687年以降は土屋氏(武田勝頼に最後まで付き従った土屋昌恒の子孫)が代々城主を務めた。

①二の丸旧前川口門(市指定文化財)を二の丸側から撮影。元々は多計郭の南側にあった(1862年築)が、明治維新後、役場→寺に移築された後、1981年に二の丸南側入口の二之門(二ノ丸門)跡に移築された。高麗門形式。

土浦城104前川口門二の丸側.jpg

②本丸南西側入口の櫓門(県指定文化財)を二の丸側から撮影。1656年櫓門に改築と伝わる。櫓内に太鼓が設置されていたことから太鼓櫓とも呼ばれていた(現在、太鼓は東櫓に展示)。

土浦城107本丸櫓門.jpg

③本丸南東隅の東櫓と霞門を二の丸側から撮影。続日本100名城スタンプの構図の場所だが、この時期は樹木が繁茂して分かりにくい。東櫓は1620年頃創建だが、1884年に焼失、1998年に木造で復元され公開(博物館入館料に含まれる)されている。霞門前入口は右折する枡形構造となっているが、門自体の来歴は明記されていない。

土浦城111東櫓と霞門.jpg

④本丸東南隅の入口の霞門を手前の枡形から撮影。薬医門形式。

土浦城112霞門.jpg

⑤本丸北西隅の西櫓を本丸側から撮影。西櫓も1620年頃創建、1949年キティ台風の被害を受け解体、1991年に木造で復元された。なお、本丸内には御殿が建てられており(幕末の1853年立替え)、明治維新後は新治県庁、新治郡役所に転用されていたが1884年に焼失、現在は緑地公園となっている。

土浦城116西櫓本丸側.jpg

⑥二の丸北西隅にある土浦市立博物館(入場料105円)へ。2階にある復元模型を北側から撮影。中央が本丸、その周囲が二の丸である。なお、当日は特別展「土浦城ー時代を越えた継承の軌跡ー」の最終日で、古地図・古文書などの他、明治維新後に移築されたと伝わる城門(複数の個人宅)の写真が展示されていた。

土浦城119市立博物館内模型北側から.jpg

土浦城は3種類(櫓門、高麗門、薬医門)の城門が現存し、二重櫓2棟が復元されているのは貴重だが、土塁造りのため、石垣造りの城に比べると地味な印象になってしまう。江戸時代の土浦城の周囲には仮想敵国がないので行政警察機能だけで十分だったのだろう。

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