黒井城 2024.2.18 [兵庫県]
2月18日午前中は黒井城跡を訪れます。福知山駅から黒井駅へ南下。黒井駅から丹波市春日住民センターに行き黒井城跡パンフレット・続100名城スタンプを入手。
①黒井城跡のある猪ノ口山(標高356m)南面。戦国時代、山頂に主郭部、中腹の尾根上に6つの曲輪が配置されていました。黒井駅前が標高88mなので比高268mです。
登山口方向へ北進し興禅寺へ。門前の春日局庵という休憩所にも黒井城跡パンフレットは置いてありました。興禅寺は黒井城の下館跡とのことで、明智光秀配下の斎藤利三の城主時代にお福(のちの春日局)が生まれたそうです。
②興禅寺七間堀と石垣。後世に改修されているようですが、館跡の面影を残しています。
登山口はこの先で、急坂で健脚者向けコースと比較的緩やかなコースがありますが、比較的ゆるやかコースを選択。少し歩くと猪よけ柵があり扉を開閉し入ります。ツキノワグマの出没可能性も掲示されていますが、天気の良い日曜日で、多くのかたが登山されているので大丈夫と思いました(なかでも地元の高齢者のかたは日常的に登られているようです)。30分ほど登ると東曲輪に到着。
③東曲輪から三の丸南石垣を撮影。画面右の隅角部は算木積みになっているようです。比較的新しい時期のものなのでしょうか。
三の丸への虎口には階段が設置されています。階段は、二の丸虎口・本丸虎口にもあり2019年末頃に遺跡保護のため設置されたようです。
④階段を登り三の丸に入ると喰違虎口のような石列があります。奥の石垣は二の丸南面です。
⑤二の丸虎口。三の丸北西に回り込んで右折して二の丸に登る枡形虎口の構造です。
⑥二の丸内に入ります。奥の石垣が本丸です。
⑦二の丸と本丸間には空堀があります。本来はもっと深かったのでしょう。
⑧二の丸と本丸を繋ぐ曲輪。南西に張り出して築かれている石垣には崩落防止のネットがかけられています。
⑨本丸虎口。二の丸虎口と同様の枡形虎口です。石垣の残存状態はこちらのほうが良く巨石が目立ちます。
⑩本丸から南西方向の眺望。
本丸に登った後、三の丸に戻って東側の帯曲輪を反時計回りに廻り、本丸と二の丸を繋ぐ曲輪の石垣に北西側から通行禁止ラインまで近づいてみます(南西側は通行禁止)。
⑪本丸南西面。上部に石垣が積まれています(鉢巻き石垣)。
⑫本丸と二の丸を繋ぐ曲輪の北西隅石垣。算木積みにはなっていないようです。
登りと同じコースを下山し、春日民俗資料館に立ち寄ってみると、地元出身の俳人片山桃史の企画展開催中でしたが、「丹波国城攻め丹波市之部」というパンフレットをいただきました。丹波市春日町滞在は2時間50分で福知山に戻ります。
[メモ]黒井城跡パンフレットによると、黒井城は戦国時代、荻野直正城主時代(1554~78)に大改修され現在残る曲輪配置になったようです。1579年に明智光秀等織田軍により攻略され、光秀重臣の斎藤利三が入り1582年の山崎合戦まで統治にあたり、合戦後には羽柴秀吉配下の堀尾義晴が入ったものの、その後の経緯ははっきりとしないようで廃城となったようです。石垣が築かれた時期は、斎藤・堀尾時期とされているようですが、荻野時代にも多少は築かれていたかもしれません。1989年に国史跡に指定されました。
篠山城 2024.2.17 [兵庫県]
2月17日から福知山線沿線の城を訪れます。まず、篠山城跡へ。新大阪駅から篠山口駅へ、駅西口から神姫バスに乗り16分ほどで二階町バス停へ。南方向へ少し歩き大手馬出跡(現在は緑地広場と駐車場)から大手土橋を通り三の丸へ(大手枡形虎口の地表痕跡なし)。
①さらに南進し二の丸北西隅へ。このあたりは廃城以降、修理されていない石垣とのこと。隅角部は完成された算木積みですが隙間が少し目立ちます。このあたりは石垣下の犬走りと堀端に桜が植栽されており石垣好きとしては石垣景観が損なわれ少々残念です。なお、画面左の突き出た石垣は二の丸北枡形虎口です。
②二の丸北廊下門跡。二の丸北枡形虎口の入口で内堀を渡る土橋上が屋根付廊下構造の門となっていました。
③画面右手前の二の丸北東石垣は明治時代に崩落したままとなっていましたが、1966~68年に修復復元されました。画面左奥は本丸北東石垣、画面下の北内堀東側は2005~08年に復元整備されたもの。
三の丸を東進し、東門跡から土橋を通り東馬出跡へ。
④東馬出跡。内側の土塁は失われていますが、周囲の堀と石垣は残っています。
三の丸に戻り、北廊下門跡から二の丸北枡形虎口へ。右折して中門跡、左折して鉄門跡を通る二重外枡形虎口となっています。二の丸に入ると復元された大書院があるのですが、そこに入るのは後にして本丸へ。
⑤本丸北西隅。本丸は二の丸の南東側に築かれています。
⑥本丸の南東隅が天守台です。天守は築かれず、南東隅に隅櫓、南と東に土塀が築かれました。
⑦二の丸に戻り、二の丸南の埋門跡へ。三方向に石段が設置されています。
⑧埋門跡から出て坂を下るところには、かつては外枡形虎口があり南廊下門を通って三の丸へ出る構造でした。後で復元模型を見ると南廊下門は急角度で設置されていたようで興味深い場所です。現在、枡形虎口石垣は失われています。
大書院横の展示室にある復元模型の南廊下門付近。
⑨三の丸から見上げる天守台・本丸・二の丸の南面石垣。城内で最も迫力のある場所です。下の南内堀石垣は最近復元整備されました。現在、南内堀西側周辺の復元整備が行われているようで、犬走りへの立入はできません。
三の丸南門跡から土橋を通り南馬出跡へ。
⑩西外堀と三の丸南西隅。樹木が生い茂っている一帯が唯一残っている三の丸土塁です(最近、三の丸南端に土塁が修景的整備されています)。
⑪南馬出跡は周囲の堀だけでなく内部の土塁も残っています。
東進して河原町妻入商家群を見た後、再び三の丸に戻り埋門経由で二の丸大書院へ。
⑫大書院南面。手前には御殿跡が平面表示されています。藩の公式行事などに使用されていた大書院は廃城後も残され学校校舎や公会堂として利用されましたが、1944年に発生した火災で焼失、2000年に復元されました。展示室の復元模型を見たあと大書院内部を見てまわります。
城跡を出たあと大正ロマン館でしばし休憩。神姫バスで篠山口駅まで戻り、福知山線で福知山駅近のホテルに向かいます。丹波篠山滞在は3時間20分でした。
[メモ]篠山城は、1609年に徳川家康の命により天下普請として篠山盆地のなかの独立丘陵(笹山)に築かれました。明治に入って廃城となり大書院を除き建物は取り壊され、城跡には教育施設等が設置されました。1956年には国史跡に指定され遺構の修復・整備が行われています。なお、本記事の解説部分は、おもに丹波篠山市ウェブサイトの『史跡篠山城跡整備基本計画』(2019年)によりました。
洲本城(2) 2023.10.21 [兵庫県]
①本丸南東側の大石段から本丸に入ります。左折の枡形虎口を通って本丸内へ。
②本丸北西隅に築かれた天守台(南面)。現在の天守風建物は1929年に建設されたものです(現在、立入禁止)。かつてどのような天守が建っていたのかは不明ですが、脇坂安治が1609年に大洲に転封された際に天守を移築したという説もあります。
③天守台から洲本市街地の眺望。
④天守台から本丸内西側を撮影。画面手前が搦手虎口ですが、本丸下段の北西側の石垣修復工事のため通行止めとなっています。
本丸から出て、南の丸南東隅の石垣を見に行きます。
⑤南の丸南東隅石垣。ここは石垣の増築の痕跡(従来の石垣との境目)を観察することができます。
本丸と南の丸の間を通り、西方向へ。
⑥本丸南西隅石垣。
⑦本丸西面。本丸下段北西側の石垣修復工事のため、本丸に通じる搦手口と麓に通じる西側登山道は通行止めとなっています。
西の丸には行くことができます。
⑧西の丸手前から本丸北西面を撮影。天守台石垣の下段の石垣は修復されたもの。西の丸の手前の残念石(放置された石材)のあるあたりからの眺望です。西の丸自体は樹木が生い茂っています。
下山は八王子木戸からで、麓まで舗装された登山道が整備されています。
⑨下の城から上の城(城山)を撮影。
麓には「下の城」と呼ばれる蜂須賀氏の家老稲田氏の居館がありました。洲本城は、脇坂安治の転封後の池田氏領主時期に利用されなくなり、1615年に池田氏から徳島の蜂須賀氏へ領主が変わっても由良城に城代を派遣していましたが、1631年に洲本に移転し麓に御殿を築きました。山上の建物は1638年に破却されたようです。
下の城跡にある洲本文化史料館は時間の関係で割愛し、この近くの洲本八幡神社に下の城から移築された建物(金天閣)を見に行きます。
⑩金天閣。1641年に建てられたもので、現在、兵庫県重要文化財となっています。
洲本滞在2時間35分とやや短い時間でしたが石垣を堪能、洲本バスセンター16時発(自由席)で帰路につきました。
[メモ]本記事の解説部分は、おもに洲本城跡パンフレット(淡路島観光協会)及び洲本市教育委員会『史跡洲本城跡整備基本計画』2021年によりました。
洲本城(1) 2023.10.21 [兵庫県]
10月21日(土)、岡山への帰省途中に淡路島の洲本城跡を訪れました。洲本城は洲本市街地の南側にそびえる三熊山(標高約130m)の東西に延びる尾根上にあり、現在残る遺構は、おもに脇坂安治城主時代(1585~1609年)のもので、国史跡となっています。新幹線でJR新神戸駅11時29分着、洲本行きの高速バスで新神戸11時45分発→洲本バスセンター13時25分着。この路線は自由席で空いていましたが、テーマパーク経由などの路線は混雑するため要予約となっています。洲本バスセンターの観光案内所で洲本城跡パンフレットを入手し、タクシーで城跡のある三熊山へ。城跡南側の大手門前でタクシーを降りて歩き始めます。
①馬屋東面石垣と大手門跡。画面左が馬屋という曲輪。馬屋東面の石垣は、修復されてきれいになっています。道の先が大手門跡。大手門奥の石垣は東の丸水の手郭南面の石垣。
②馬屋から紀淡海峡方向の眺望。「馬屋」は南端の曲輪で、南方向の紀淡海峡が一望できます。画面右の島(成ヶ島)が由良城跡(1613年に池田忠雄が築いた城)。
③ 東の丸水の手郭。東の丸南側の曲輪は「水の手郭」と呼ばれており、その名の通り、日月(じつげつ)の池や井戸が残っています。ただ、今となっては悔やまれますが、日月の池は公園風に改変されています。
④東二の門跡。東の丸を東方向へ進み、東二の門跡から「武者溜」という東端の曲輪へ。
⑤武者溜東一の門跡。武者溜の東南の虎口で麓につながっています。
⑥武者溜から東の丸北斜面の東の登り石垣を撮影。階段状に築かれています。北斜面には麓まで登り石垣が東西二列築かれていますが、これは東側のもの(西側は現在立ち入って見ることはできません)。
⑦武者溜から東の丸北側の東面を撮影。このあたりは岩盤が露出しています。
この東の丸北側の上部には「二段の郭」と呼ばれる石垣を廻らした曲輪があり、東の丸東二の門跡付近から登ってみます。
⑧東の丸二段の郭南東隅。ここの石垣は大丈夫ですが、西側はかなり崩れています。
二段の曲輪から下りて、東の丸二段の曲輪と本丸側との谷間にある八王子木戸へ。
⑨八王子木戸から石垣の連なる山里郭東面(画面下)・本丸東面を撮影(画面上)。
⑩山里郭から本丸東面を撮影。出隅の石垣が崩落しています。
次はいよいよ本丸へ。
赤穂城 2022.5.2 [兵庫県]
岡山への帰省の途中、復元整備された赤穂城を訪れたのは2022年5月2日(月)のこと。姫路駅で在来線に乗換え播州赤穂駅へ。駅から15分ほど南西方向に歩くと三之丸北東隅の大手隅櫓と大手門が見えてくる。
①三之丸大手隅櫓と大手門(高麗門)。これらの建物は1955年に赤穂城復興義士尊像奉献奉賛会によって再建されたもの。
大手門からは入城せず三之丸北西隅へ向かう。
②三之丸北西隅。北西隅には櫓が築かれなかったが隅部石垣が突出する構造となっており、赤穂城跡公式Webサイトではこのような方形の突出部を「横矢枡形」と呼んでいる。西側(画面右)の石垣には三角形に突出する屏風折が造られている。なお、三之丸外堀西側は埋められている。
赤穂城は、瀬戸内海に注ぐ千種川の三角州の先端部に、浅野長直が1648~1661年にかけて築いた平城。城の縄張りは甲州流軍学によるもので石垣を屈曲させて横矢掛りを駆使した構造に特徴がある。明治になって、建物は取壊し・移築され、土地も払い下げられたが、1971年の国史跡指定を機に、赤穂市が土地公有化と城跡復元整備を行い現在の姿となった。
三之丸西側の石垣に沿って南方向へ進むと搦手入口の塩屋門跡に達する。
③三之丸塩屋門跡を内側から撮影。高麗門と枡形(櫓門は築かれなかった)で構成されるが、枡形の片側石垣は失われている。
三之丸を南東方向へ進み二之丸門跡へ。
④二の丸門跡。左折する枡形虎口で切妻の櫓門があった。二之丸門を含むこのあたりの石垣は、1892年の千種川の洪水災害復旧と流路変更のため利用され失われたが、2016年度に一部復元(画面右側)された。
二之丸を南方向へ進み本丸門へ。
⑤本丸門。高麗門と櫓門から構成される枡形虎口である。本丸は、1928~1981年のあいだ赤穂高等学校(旧制赤穂中学校)として利用された後、発掘調査・城跡復元整備が行われた。本丸門は1996年に復元された。
⑥天守台。本丸南東部に独立して築かれている(建物は築かれなかった)。石垣の高さは城内最高の約9m。
⑦天守台から見おろす本丸庭園。本丸庭園は復元整備されて国名勝に指定されている。
本丸門から出て、本丸を囲んでいる二之丸を反時計回りに進む。西側の二之丸庭園を経て二之丸南端の水手門跡へ向かう。
⑧二之丸水手門跡。江戸時代には二之丸南岸は瀬戸内海に面しており、門の前面には船着き場の雁木が設けられ、さらに波よけの突堤が築かれていた。これらの雁木と突堤は発掘調査に基づき復元整備された。奥の建物は米蔵を模して造られた米蔵跡休憩所。
⑨城外(往時の海)から二之丸南沖櫓台を撮影。城内最南端に位置する海上監視の二重櫓跡。
水手門跡から二之丸に戻る。
⑩本丸南側石垣。画面左から、本丸南西隅の大規模な突出部、刎橋門跡、屈曲して南東隅へと続く、見応えのある石垣。
本丸東側石垣を眺めながら二之丸東側を北方向へ進む。
⑪本丸東側の厩口門。発掘調査に基づき2001年に復元整備された。
⑫本丸東北隅櫓台。本丸唯一の隅櫓(二重櫓)で明治初期まで残っていた。
二之丸門跡から出て三之丸東側の清水門跡へ向かう。
⑬清水門跡(画面左)と二之丸東北隅櫓台(画面右)。二之丸東北隅櫓台は1892年の千種川洪水災害復旧のため失われていたが1996年に復元整備されたもので白石と黒石の石垣のコントラストが映える。奥の建物は赤穂市立歴史博物館。
三之丸北側へ進み、大石良雄宅跡長屋門を見て大手枡形へ。
⑭三之丸大手枡形。明治時代に改変されていたが、2002年に復元整備された。
大手門から退城。赤穂城は、本丸・二之丸・三之丸を囲んで延々と続く石垣が素晴らしい。なお、本記事の解説部分は赤穂城跡公式Webサイトやパンフレットによりました。