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金沢城(2) 2022.11.14 [石川県]

金沢城河北門から三の丸へ入り、東側の石川門へ。
①石川門枡形内石垣。異なる時期の石垣が左右に並ぶ。画面左は寛永期(4期)の打込み接ぎ石垣(江戸後期の改修含む)、右は明和期(6期)の不整形な切石による切込み接ぎ石垣。
金沢城22106石川門.jpg
②内部公開中の石川門(1788年築、重要文化財)。石川櫓から入り続櫓・櫓門を廻って戻る順路となっている。高麗門・櫓門・多聞櫓で囲まれた枡形門遺構が揃っているのは金沢城のみ(大坂城大手門の方が規模は大きいが一辺が土塀)。
金沢城22112石川門菱櫓.jpg
東の丸東面の石垣を眺めた後、菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓(2001年復元)が並ぶ二の丸東面へ。
③五十間長屋石垣。寛永8年(1631)の大火後に二の丸が整備(二の丸御殿の創建)された際、三の丸との間に堀・石垣・櫓を築いたのが始まりで、宝暦9年(1759)の大火後に修築された打込み接ぎ石垣が現在残っている。
金沢城22121五十間長屋.jpg
二の丸には入らず二の丸北面へ。
④二の丸北面石垣。寛永期(4期)に築かれ、寛文期(5期)に修築された石垣、横目地がきれいな打込み接ぎの完成形とされる。
金沢城22130二の丸北面石垣.jpg
⑤土橋門石垣。寛永期に築かれ、寛文期・享和期に不整形切石積み石垣に修築された。三の丸北西入口で枡形虎口だったが、内枡形部分は消滅している。
金沢城22134土橋門.jpg
⑥数寄屋敷石垣。手前の切手門横の石垣は、金場(かねば)取残し積み(表面の周囲を縁取りし中は粗く削り残した不整形切石積み)、後方の二の丸との間の石垣は、長方形の切石積み。二の丸の西側にある数寄屋敷は二の丸御殿の部屋方(女中部屋)があったためかお洒落な石垣が用いられている。奥の建物は旧陸軍歩兵第六旅団司令部庁舎。
金沢城22139切手門東側.jpg
数寄屋敷から二の丸に入り、極楽橋を渡って本丸付段へ。
⑦極楽橋下石垣。寛永期の打込み接ぎ石垣で堀底を歩くことができる。
金沢城22176本丸付段前石垣.jpg
⑧本丸付段の三十間長屋(1858年築、重要文化財)。石垣はカラフルな金場取残し積み。石川門同様建物内は公開されている。
金沢城22156三十間長屋西面.jpg
⑨鉄門石垣。本丸西側の入口、寛永期に築かれ明和期に修築された不整形切石積み石垣。
金沢城22158鉄門.jpg
⑩本丸跡。本丸内は穴が掘られて旧陸軍時代の弾薬庫跡となっており、江戸時代の趣はなく石垣の一部も失われている。天守及び後継の三階櫓は画面右奥(南東)方向にあったはずだが、地表面に痕跡は残っていない。
金沢城22160旧陸軍弾薬庫跡.jpg
⑪本丸北東隅の戌亥櫓跡から眺める二の丸橋爪門・橋爪門続櫓。橋爪門内側の石垣は正方形切石積みで色彩のコントラストが美しい。
金沢城22162橋爪門.jpg
本丸南側→東の丸→東の丸付段の鶴丸倉庫へ。
⑫鶴丸倉庫(1848年築、重要文化財)。外壁下半分は石貼り造りとなっている。こちらも内部公開している。
金沢城22171鶴丸倉庫.jpg
本丸北面石垣→二の丸→玉泉院丸に戻る。鼠多門橋を渡り北進、鼠多門続櫓台石垣・数寄屋敷崖下の石垣を見ながら帰路についた。
[メモ]石垣の分類・編年については、現地案内板のほか石川県金沢城調査研究所『よみがえる金沢城2』、石川県ウェブサイト「金沢城公園」によりました。



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金沢城(1) 2022.11.14 [石川県]

20221114日(月)、都内から北陸新幹線に乗り、7年ぶりに金沢城を訪れる。前半は、城跡西側の玉泉院丸から外周を反時計回りに廻ることに。まず、尾山神社(金谷出丸跡)からお堀通り(いもり堀跡)をまたぐ鼠多門橋を渡り鼠多門から玉泉院丸へ入る。
①玉泉院丸鼠多門と鼠多門橋。
金沢城22007鼠多門.jpg
鼠多門と鼠多門橋は発掘調査等に基づき2020年に復元整備された。鼠多門は海鼠壁が白漆喰ではなく黒漆喰仕上げとなっていることが特徴、鼠多門橋は現代の安全基準を満たすラーメン構造の鋼材を木材で覆う仕上げとなっている。
②玉泉院丸庭園。
金沢城22021玉泉院丸内中央.jpg
庭園は発掘調査等を経て盛土の上に2015年に再現されたもの。庭に面した崖に色紙短冊積み石垣などの趣向を凝らした石垣が配置されている。
玉泉院丸から南方向の薪の丸を通って本丸南面へ。
③本丸申酉櫓下石垣。
金沢城22047申酉櫓下石垣.jpg
本丸南面石垣の大半は慶長期(2期)の割石積み(初期の打込み接ぎ)とされるが、画面中央の旧隅角ラインに沿って画面左側は寛永期(4期)に継ぎ足された粗加工石積み(打込み接ぎ)で刻印があるのが特徴、規格化がすすんでいるようだ。なお、石垣上部の三分の二は1907年の崩壊で失われ、下の三分の一が現存している。
④本丸南面石垣。下段はいもり堀埋め立ての土取後の崖保全のため明治期に設置された谷積み石垣で、上部三分の二の崩落した石が再利用されている。
金沢城22050本丸南石垣.jpg
石垣展示を見ながら本丸・東の丸南東隅の辰巳櫓下へ。
⑤兼六園側から辰巳櫓下の隅角部石垣を撮影。
金沢城22070南隅.jpg
南面(画面左)の石垣は1907年の石垣崩落後に三段に改変されたが、下段の隅角部は慶長期の石垣できれいな算木積みになっている。東面(画面右)は文禄期(1期)の野面積みで高石垣を積むため二段で築かれており、隅角部は素朴な算木積みとなっている。
⑥百間堀跡といもり堀跡。画面右の道路が兼六園との間の百間堀跡、前に突き出ている石垣が鯉喉(りこう)櫓台で前面のいもり堀の一部とともに2010年に復元された。
金沢城22068南東全景.jpg
⑦東の丸東面石垣。何か作業中のようだ。上の二段は文禄期の野面積み、下段は百間堀縁の石垣で元和期(3期)の粗加工石積み(打込み接ぎ)。
金沢城22074本丸東石垣.jpg
⑧三の丸東面石垣。元和期に築かれた石垣を文化期に修築したもの。
金沢城22079三の丸東面石垣.jpg
石川門と兼六園をつなぐ土橋跡の橋をくぐり抜けて、北側の白鳥路(白鳥堀跡)を通り大手堀に面した尾坂門跡へ。
⑨尾坂門跡。慶長期に築かれた石垣を寛政期に修築したもの。大きな鏡石を配置している。
金沢城22090尾坂門.jpg
尾坂門跡から入り新丸広場を横断して三の丸北東入口の河北門前へ。
⑩河北門前石垣。河北門前周辺の三の丸北面は慶長期の石垣が残る。河北門自体は2010年に復元されたもの。
金沢城22095河北門前石垣.jpg
[メモ]石垣の分類・編年については、現地案内板のほか石川県金沢城調査研究所『よみがえる金沢城2』、石川県ウェブサイト「金沢城公園」によりました。



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