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座喜味城 2020.1.14 [沖縄県]

2020年1月14日(火)、今帰仁城をあとに座喜味城へ向かう。「65本部半島線(渡久地廻り)」バスで「今帰仁城跡入口」11時33分(実際11時40分)発→「名護十字路」12時9分着、ここで「120国際線旅客ターミナル前行」バス(西海岸沿いの路線)に乗り継ぎ、12時23分発→「親志入口」13時19分(実際13時25分)着、西方向へ歩いて30分ほど、段々登りがきつくなる頃にユンタンザミュージアム(ゆんたんざ:読谷山)が見えてくる。ここでパンフレットをもらい、さらに丘を登って座喜味城へ。

座喜味城(ざきみじょう)は、沖縄本島中部西海岸の読谷村(よみたんそん)の丘陵上(標高約120m)にある。中山王による今帰仁城攻略(1416年、一説には1422年)後に護佐丸が築城したとされ、1440年に中城城に移転したあとは廃城となったようだ。1944年に旧日本軍の高射砲陣地となり、1960年にはアメリカ軍のレーダー基地となり、改変されてしまったが、日本復帰後に発掘調査、修復が進められ、歴史的景観がよみがえった。

①二の郭南側城壁。丘の頂上部にカーブと張出部が連続する城壁に囲まれた一の郭、二の郭が配置されている。二の郭の南側は、アーチ門を中心に城壁がカーブし両翼が張り出す構造となっている。

座喜味城003二の郭南側.jpg

②二の郭アーチ門。築城時から残っていたものを修理したもの。

座喜味城004二の郭アーチ門.jpg

③二の郭西側。アーチ門を入り二の郭の左(西)側に進むと袋小路になっている。

座喜味城010二の郭西へ.jpg

④二の郭から一の郭アーチ門と南側城壁を撮影。アーチ門を中心に半円形となる。

座喜味城014一の郭南側.jpg

⑤一の郭アーチ門。近年復元されたもの。

座喜味城016一の郭アーチ門.jpg

⑥一の郭城壁上から内部を撮影。アーチ門を入り一の郭城壁上へ。城壁幅が広いので歩くことができる。一の郭はカーブと張出部が5ヶ所連続する横長星形の城壁で囲まれている。内部には発掘調査により礎石建物跡が見つかっている。

座喜味城028城壁上から一の曲輪内.jpg

⑦外周に出て、二の郭東側城壁のカーブ部分を撮影。

座喜味城032二の郭東側城壁 (2).jpg

⑧外周から、一の郭北東張出部分を撮影。

座喜味城033一の郭東側城壁 (2).jpg

座喜味城滞在は約1時間、15時頃退城し、バス停「親志入口」まで戻り、「120国際線旅客ターミナル前行」バスで15時37分(実際15時45分)発→「国内線旅客ターミナル前」17時16分(実際17時21分)着。那覇空港18時50分発で帰路についた。路線バスの旅、無事終了。

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今帰仁城 2020.1.14 [沖縄県]

今帰仁城(なきじんじょう)は、沖縄本島北部から東シナ海に突き出た本部(もとぶ)半島北東部の丘陵上にあり、13世紀末頃に築城され、琉球王国統一前の三山時代には山北王の居城だった。1416年に中山王に滅ばされた後は派遣された監守の居城となったが、1609年の薩摩軍侵攻後は廃城となった。

2019年1月14日(火)朝、名護バスターミナルで1日周遊パスを購入し、「66本部半島線(今帰仁廻り)」バスで8時15分発→「今帰仁城跡入口」8時56分着(実際9時5分)。バス停から15分ほど車道沿いの歩道(カンヒザクラがちらほら咲いている)を南方向に登って行くと今帰仁村グスク交流センターが見えてくる。ここで入城チケット400円を購入(今帰仁村歴史文化センター利用と共通)。まず、城の北西側に広がる外郭から。

①外郭東側。画面左に蛇行しているのが外郭城壁で高さは2m前後と低い。中央部分が失われているが、両翼は残存している。画面中央の石積は発掘調査で見つかったもので建物の基壇とのこと。

今帰仁城004外郭 (2).jpg

②平郎門。外郭から城内に入る正門で1962年に修復されたもの。左右に長方形の狭間がある。門の天井は大きな一枚岩を用いている。

今帰仁城010平郎門.jpg

③大隅(ウーシミ)北西側城壁。平郎門の左側(東側)は大隅という郭でカーブを描く高い城壁に囲まれている。城壁の石材はこの丘陵から採石された古期石灰岩で灰色で硬いのが特徴という(中城城などの白色で軟らかい琉球石灰岩とは異なる)。石積みは野面積み。

今帰仁城014大隅城壁 (2).jpg

④平郎門から大庭(ウーミャー)への参道を大庭側から撮影。この通りは近現代に参道として整備されたもので、カンヒザクラの名所。まもなく桜祭り。

今帰仁城021平郎門からの通り.jpg

⑤旧道。本来の登城道はこちら。1980年の発掘調査で石敷きの小道が見つかった。

今帰仁城023旧道.jpg

⑥大庭。広場を中心に一段上(東)が主郭で中心的な建物があり、南北に南殿・北殿の建物が配置されていたとされる。

今帰仁城027大庭.jpg

⑦御内原(ウーチバル)から大隅をめぐる城壁(北方向)を撮影。大庭の北側、御内原は城内の最高所(標高100m)で眺望がすばらしい。御内原には女官部屋があったとされ、現在はテンチジアマチジという御嶽がある。

今帰仁城029大隅.jpg

⑧主郭。発掘調査によって何層もの石積・建物跡が見つかり、13世紀末から17世紀初めまで機能していたとされる。廃城後は、火神(ヒノカン)の祠(画面右端)が設置され、祭祀を行う場として利用されている。

今帰仁城044主郭.jpg

⑨志慶真門(シゲマジョウ)郭。主郭から南に下ったところにあり、発掘調査によって掘立柱建物跡が見つかった。門自体は崩れて失われている。城内の生活用水確保のため下の志慶真川からこの郭へ水揚げしていたとされる。

今帰仁城035志慶真門郭.jpg

最後に歴史文化センターに立ち寄り、出土遺物等の展示を見学し、ガイドブックを購入。今帰仁城滞在は約2時間で11時10分頃退城し、次の目的地:座喜味城に向けバス停に向かった。

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勝連城 2020.1.13 [沖縄県]

2020年1月13日(月)、中城城の次に向かったのは勝連城(かつれんじょう)。北中城村のバス停「仲順」まで30分ほど歩き、「52屋慶名BT行」バスで定時15時18分(実際15時25分)発→「勝連城跡前」定時15時54分(実際16時5分)着で下車。バス停のすぐそばに勝連城跡休憩所がありパンフレット入手、城復元模型・出土遺物の展示を見ることができる。休憩所から道路を横断し、丘を登って、まず、四の曲輪へ。

勝連城は、うるま市の太平洋側に突き出た勝連(または与勝)半島の小高い丘(標高98m)にあり、12~13世紀頃に築城され海外貿易の拠点として栄え、15世紀に城主となった阿麻和利(あまわり)のもと最盛期を迎え、1458年には中城城の護佐丸を倒したが琉球国王軍との争いに敗れ滅ぼされてしまい、廃城となったようだ。近年、発掘調査・整備事業が進められ美しい歴史的景観となっている。

①四の曲輪から三の曲輪南東側城壁を撮影。城の南東低地にある四の曲輪の城壁はかなり失われているようで、入口の西原御門(にしはらうじょう)・南風原御門(はえばるうじょう)の痕跡はなさそうだが、三の曲輪に連なる登り城壁は残っている。四の曲輪内には5カ所の井戸が残っている(うち2ヶ所は御嶽)。

勝連城036四の曲輪より (2).jpg

②三の曲輪への上りライン。四の曲輪から三の曲輪へは城壁に沿って右下から左上に上る石畳+石階段となっている(現在、石畳部分には木製階段が取り付けられている)。一の曲輪への上りも同様の構造で防御システムとなっているようだ。

勝連城007三の曲輪へ (2).jpg

③三の曲輪入口。礎石から木造の四脚門があったとされる。

勝連城010三の曲輪入口内側.jpg

④二の曲輪への石階段。三の曲輪から二の曲輪へは、直線の石階段が3ヶ所あり、これは右側の2つ。二の曲輪には御殿があり、三の曲輪はその前庭部となっていたとされる。

勝連城026二の曲輪石段 (2).jpg

⑤二の曲輪建物礎石。御殿があったとされる。首里城正殿のようなものをイメージすればよいのだろうか。

勝連城024二の曲輪内部.jpg

⑥三の曲輪から一の曲輪南東側城壁を撮影。三の曲輪西側から一の曲輪に連なる登り城壁が勝連城の特徴の一つである(四の曲輪から三の曲輪に連なる登り城壁と同様構造)。

勝連城011三の曲輪から.jpg

⑦一の曲輪への石階段。二の曲輪から一の曲輪へは三の曲輪への上りと同様に右下から左上に上るルートで、最後は段々幅が狭まる石階段となっている。一の曲輪の入口は、アーチ門だったとのことだが失われている。

勝連城015一の曲輪への石段.jpg

⑧一の曲輪から北西方向の眺望。ここからはさえぎるものがなく四方への眺望が素晴らしい。

勝連城021一の曲輪北西方向.jpg

勝連城滞在時間は約1時間で、17時に退城し、バス停「西原」まで5分ほど歩き、「27那覇BT行」バスで定時17時15分(実際17時20分)発→「安慶名」17時30分(実際17時35分)着、「77名護BT行」バスに乗り継ぎ定時17時55分発予定の所、遅れていた定時17時22分(実際17時45分)発→「名護BT」定時18時54分(実際19時15分)着。名護で一泊し、翌日、今帰仁城へ。

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中城城 2020.1.13 [沖縄県]

中城城(なかぐすくじょう)は、中城村北端・北中城村南端の標高160mの丘陵上にあり、14世紀後半頃までに主要部分が築かれ、勝連城の阿麻和利に対する備えとして琉球国王の命により1440年に護佐丸が座喜味城から居を移し三の郭・北の郭を増築したが、1458年、阿麻和利の策略により自害したとされる。その後は、番所や役場が置かれ、1945年の沖縄戦まで地方行政の中心地として使用された。

訪れたのは2020年1月13日(月)のこと。羽田空港8時50分発→那覇空港11時50分着予定のところ、12時5分過ぎに到着。急いでバス乗場へ。高速バス(111名護BT行)12時20分発→13時喜舍場で下車(高速バスは定時運行)。北中城村役場前に出てタクシーを呼び、13時20分頃中城城址入口へ到着(歩くと上りで30分強くらいか)。管理事務所で入場料400円を払いパンフレットをもらって入城。道順は、丘陵北側麓の小道を南西端まで進み(電動カート車もある)、南の郭下の正門から入り、一の郭、二の郭、三の郭と北東に戻って行くコースである。

①正門。城の南西端が正門となっている。首里城側なので正門なのだろうか。アーチ門ではなく櫓門だったといわれている。両翼に石積みが張り出している。

中城城010正門 (2).jpg

②南の郭入口。正門を入り、右折して上ったところが南の郭入口である。1853年のペリー提督一行の調査時の絵ではアーチ門として描かれている。南の郭内部は、神聖な場所として様々な拝所がある。

中城城017南の郭入口.jpg

③一の郭南西側入口。南の郭から一の郭へは、このアーチ門から入る。

中城城026一の郭西門.jpg

④一の郭から南方向中城湾の眺望。最も広い郭である一の郭内部には、正殿が建っていた。

中城城032一の郭南城壁.jpg

⑤一の郭北東側のアーチ門を通り二の郭へ。二の郭側から撮影。アーチ門を中心に城壁もカーブを描いている。

中城城044一の郭東門二の郭側.jpg

⑥一の郭の北東側城壁上から二の郭内部を撮影。この延長線上(北東方向)に勝連城が見える。

中城城045二の郭.jpg

⑦二の郭北東側城壁を三の郭から撮影。二の郭の北西出入口から西の郭に下りて北の郭へ進み右折して階段を上ると三の郭である(二の郭と三の郭は直接往来はできない)。三の郭の頭上に二の郭の城壁がそびえている。中央部がカーブを描き両翼が張り出す構造である。石積みは長方形切石の布積み。

中城城063二の郭東城壁.jpg

⑧裏門を外側(北東側)から撮影。北の郭に戻り、北東に進むとアーチ門の裏門がある。

中城城065裏門.jpg

⑨裏門から出て、三の郭北東側城壁を撮影。二の郭北東側城壁と同様な形式だが、石積みは、亀甲切石の相方(あいかた)積みで築かれている。

中城城069三の郭東城壁 (2).jpg

中城城滞在は1時間20分程度で14時40分に退城、次の目的地:勝連城へ向かう。

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