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岩櫃城 2023.4.4 [群馬県]

岩櫃(いわびつ)城は、名胡桃城・沼田城と同じく真田氏ゆかりの城で、ともに群馬県から続日本100名城に選定(2017年、日本城郭協会による)されている(2016年の大河ドラマ「真田丸」の影響か)。JR吾妻(あがつま)線群馬原町駅→岩櫃城跡→岩櫃山→潜龍院跡→郷原駅のルートをたどってみた。「岩櫃山周辺ガイドマップ」(東吾妻町)によると郷原駅→岩櫃山→群馬原町駅のコース時間は2時間40分とあるが、山頂には登らず休憩時間を加えて3時間を目標タイムに設定。
①群馬原町駅跨線橋から岩櫃城方向(南西方向)の景観(1150分、標高364m)。
岩櫃城101群馬原町駅より.jpg
②途中、不動滝に寄り道。
岩櫃城103不動滝.jpg
このあと平沢登山口観光案内所へ到着し休憩(1240分、標高511m)。
③城跡の「中城」という曲輪への道。空堀跡なのだろうか。
岩櫃城109中城へ.jpg
④「中城」から主郭(本丸)への道。ここも空堀跡と思われる。
岩櫃城118中城南堀.jpg
⑤主郭南斜面竪堀を見上げる。
岩櫃城125本丸南下竪堀.jpg
⑥主郭南下の堀切。この先が竪堀となっている。
岩櫃城126本丸南下横堀.jpg
⑦主郭から南斜面竪堀を見おろす(1310分、標高594m)。
岩櫃城128本丸南下竪堀.jpg
⑧主郭から南西へ「尾根通り」と呼ばれる尾根道を登り始める。
天狗岩まではトレッキングという感じで順調。岩櫃城138天狗岩.jpg
この先からは、岩場・急斜面が続き、トレッキングというより登山に近い険しさ。
岩櫃城140尾根通り.jpg
6合目(赤岩通り分岐)まで登り(1340分頃、標高680mくらい)、あとは下山することに。急登で険しい「赤岩通り」からの下山は回避して迂回ルートの「十二様通り」から下山したが、こちらも落ち葉の積もった急斜面続きで気が抜けない。郷原城跡にたどり着いて一安心(1410分頃)。
⑨潜龍院跡。真田昌幸が織田・徳川軍に敗れた武田勝頼を迎えるため三日で造った御殿跡とされる。その後、真田昌幸の一族の根津潜龍斎という山伏が拝領して寺としたと説明書きにある。
岩櫃城147潜龍院跡.jpg
⑩密岩神社から岩櫃山南面(山頂802.6m)。
岩櫃城153岩櫃山.jpg
そして1440分頃、郷原駅到着。無事、JR吾妻線経由で帰路につくことができた。
[メモ]岩櫃城は、岩櫃山の東中腹に位置している。西上州攻略をめざす武田信玄のもとで真田幸隆が城主となり(1563年頃)、その後も真田氏の支配下にあったが、1614年に廃城となったようだ。2019年、城跡は国史跡に指定された。



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沼田城 2023.3.30 [群馬県]

後閑駅からJR上越線で沼田駅へ。
①沼田駅に隣接する跨線橋からの沼田城跡の景観。沼田城は利根川左岸の段丘北西隅に立地(標高410mくらい)している。駅前の標高は330mくらいなので高低差80m、急勾配の坂道は歩いた方が実感できるのだろうが、易きにつき関越交通のバスで登ることとする。
沼田城102遠景.jpg
沼田城は、真田昌幸が1580年に攻略、真田信之の城主時代(15901616年)に天守を備えた近世城郭に整備されたが、1681年の真田信直改易後に全て破却されてしまい、その後は、堀と土塁が再建され、三の丸に藩邸が建てられる程度にとどまり、近代には公園として整備されたので、目に見える遺構は多くはない。

②本丸南東隅あたりの景観。画面左の林が本丸南東隅(巽櫓台跡)、その周囲は本丸堀跡、画面右の小高い丘は本丸大門前の曲輪(馬出)跡、手前の広場(テニスコート跡地)の上辺は堀跡で2020年度に発掘調査(変色している箇所がトレンチ箇所と思われる)が行われ、大量の瓦片が出土している。
沼田城123馬出郭前.jpg
③本丸東堀石垣跡。さきほどの本丸南東隅と本丸大門前の曲輪(馬出)との間の堀にあたり、2015年度の発掘調査により石垣の残存部分が検出された。正保城絵図によると本丸東面のみ石垣が築かれていた。
沼田城121本丸東堀.jpg
④天守台跡。本丸北東隅に五重の天守が築かれていたが石垣を含め破却され、現在は小高い丘が残るのみ。2016年度に周辺の発掘が行われたが、石垣自体は検出されなかった。
沼田城118天守台.jpg
⑤本丸北西隅の西櫓台跡(乾櫓跡)の南東面石垣。正保城絵図によると西櫓周囲に石垣は描かれていないが、現実の遺構としては石垣が残存している。櫓台上の桜(ヒガンザクラ)は御殿桜と呼ばれている沼田城跡のシンボル的老木。
沼田城107西櫓台.jpg
⑥西櫓台跡南西面石垣。現在は、桜の枝の落下や石垣の崩落のおそれがあるため立入規制されている。御殿桜の枝は支柱で支えられており、かなりの樹齢(推定樹齢400年とされる)と思われる。
沼田城106西櫓台.jpg
⑦鐘楼。城跡の遺構ではないが、公園のシンボル的存在。
沼田城114鐘楼.jpg
⑧段丘北西崖上の捨曲輪(古城)からの名胡桃城方向の眺望。
沼田城117名胡桃城方向.jpg
帰りは関越バスで上越新幹線上毛高原駅まで戻り帰路についた。
[メモ]公園(城跡)南側の沼田市観光案内所には沼田城の復元模型が展示されている。案内所で入手したパンフレット『発掘された真田の城 沼田城跡』によると、現在、沼田市では城跡の調査・保存整備事業を進めており、史跡の上位指定(現在は沼田市指定史跡)を目指している。


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名胡桃城 2023.3.30 [群馬県]

桜開花が各地に広がる3月末、真田氏ゆかりの名胡桃(なぐるみ)城(群馬県みなかみ町)と沼田城(群馬県沼田市)を訪れる。上越新幹線で上毛高原駅下車、タクシーで名胡桃城址案内所前まで行く(歩くと3.8km50分くらいか)。名胡桃城は利根川右岸の段丘に立地、東は段丘崖、南北は谷になっている。現在は、国道17号線が西端を横断しているが、道路東側の主要郭部分は19922000年度にわたる発掘調査の成果に基づき、天正年間(15731592年)後半時期の姿に整備(土塁の一部復元、木橋設置、平面表示など)されている。
①三郭前の景観。三郭虎口前には丸馬出跡が検出されたが、埋め戻されて地面表示されている。三郭の土塁は復元されていない(二郭側以外には土塁跡が検出されている)。
名胡桃城101三の郭前.jpg
②般若郭方向の景観。谷を隔てた北西側(画面左上)は、現在は駐車場となっている般若郭跡。
名胡桃城105般若郭.jpg
③三郭を北東方向へ進み、木橋を渡り二郭南虎口へ。虎口の左右で堀切と土塁の位置が前後する喰違虎口となっている。
名胡桃城109二の郭虎口.jpg
④二郭を北東方向へ進み、二郭北虎口を土塁上の見学台から見おろす。枡形虎口となっている。南北の虎口が二郭を防御する構造となっている。
名胡桃城115二の郭北虎口.jpg
⑤二郭北虎口から木橋を渡り本郭へ。本郭の周囲には土塁跡が検出されている。
名胡桃城119本郭堀切.jpg
⑥本郭を東方向に進むと、堀切の向こう側が、ささ郭。ささ郭は通路の両側に土塁が残っており、先端部に搦手門跡が検出されている。
名胡桃城122ささ郭堀切.jpg
⑦ささ郭搦手門跡から南東(沼田)方向の眺望。真田昌幸が沼田城攻略の拠点として1579年頃に名胡桃城を築いたとされる。
名胡桃城124沼田方向.jpg
三郭前まで戻り、沼田に向かうため、国道17号線経由でJR上越線後閑駅まで歩いて行く(2.7km35分くらい)。
⑧途中で撮影した城跡南崖。南は谷川(湯舟沢)に浸食された崖となっている。
名胡桃城127東面.jpg
[メモ]名胡桃城は、1589年に豊臣秀吉による北条氏と真田氏との領地裁定で真田領となったが、北条方が不法攻略したことにより、秀吉による北条氏攻略が始まったことで知られている。1590年の北条氏降伏後は廃城となったようで、現在は群馬県指定史跡となっている。現地の案内板による発掘内容の解説・復元想像図が充実しているので往時の姿が想像しやすい。



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高崎城 2017.5.27 [群馬県]

2017年5月27日(土)、新幹線で高崎駅に到着後、箕輪城に向かうバスの出発前の時間(40分弱)を利用して高崎城遺構の残る三の丸堀周辺へ。駅から西側の高崎市役所方向へ10分程度歩くと三の丸堀へ。

①三の丸出構(東門横の突出部)より水堀を撮影。ここに「将軍の孫」像(北村西望氏)が設置されている。

高崎城102出構.jpg

②三の丸東側堀。用水は、農業用水長野堰(箕輪城築城者の長野氏の先祖が開発したとされる)から取水している。

高崎城106三の丸堀.jpg

③三の丸大手(追手)門跡付近に移築された本丸乾櫓と二の丸御殿表門。乾櫓は、本来は石垣上ではなく土塁上に建っていた。表門は長屋門形式のようだ。

高崎城103乾櫓と二の丸御殿表門(移築) (2).jpg

高崎城は、1598年井伊直政が和田城跡に築城したもので、西側の烏川を背に三ノ丸堀が北・東・南を囲み、その中に、二の丸、本丸などを配置する土塁と水堀からなる平城だった。明治維新後は東京鎮台高崎分営が置かれ、三の丸の土塁と水堀を除き、建物・土塁・堀は撤去された。本丸には土塁上に御三階櫓と四隅に二重櫓が構えられていたが、このうち乾櫓は払い下げられて農家の納屋として使用されていたものを1976年に移築復元したもの(県指定文化財)。二の丸御殿表門も同様に1980年に移築復元されたもの(市指定文化財、ただし「東門」として指定)。現在、NTT東日本の建物あたりが本丸跡だが、三の丸堀周辺を除くと城跡の遺構は残っていない(市史跡指定は「三の丸外囲の土居と堀」)。




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箕輪城 2017.5.27 [群馬県]

箕輪城は、榛名山東南麓に南北に広がる独立丘陵上(標高270~280m)に、長野氏によって1500年頃築城された。1566年に武田信玄に攻略され武田氏支配となった後、織田氏、北条氏の支配を経て、1590年徳川家康の関東移封後は井伊直政が城主となり大改修したが、1598年に高崎に新城を築いて移転後は廃城となった。現在残る遺構は井伊直政時代のもの。1987年に国史跡となり、高崎市では1998~2006年度に発掘調査を行い、2011年度から環境整備・遺跡整備を行っている。

箕輪城を訪れたのは2017年5月27日(土)だが、史跡整備事業は現在も続いているようで直近では本丸と蔵屋敷の間の木橋工事に着手したようだ。都内からは新幹線で高崎駅へ、高崎駅西口からは群馬バス(伊香保行き)11時20分発→城山入口11時59分着(現在は10時55分発→11時34分着)。バス経由での登城者は一人だけだった(来城者の大半は自家用車)。バス停から西方向の椿名口の遊歩道を経由してお寺の門前を通り、石段を登って観音様口の遊歩道から北上すると郭馬出の手前に出る。

①郭馬出(かくうまだし)の西虎口。櫓門は発掘調査に基づき2016年11月に伝統的工法で推定復元された。

箕輪城106郭馬出西虎口.jpg

②郭馬出から北へ土橋を渡り二の丸へ進み、郭馬出全景を二の丸側から撮影。郭馬出は、堀切・土塁・土橋が城内で最も整備されたエリアである。

箕輪城115二の丸より郭馬出.jpg

③二の丸を北上し本丸南虎口へ。本丸と二の丸の間の堀を土橋から撮影。

箕輪城121本丸南堀.jpg

④本丸の周囲は土塁囲いとなっている。本丸を北上し御前曲輪へ。

箕輪城123本丸東土塁北方向.jpg

⑤御前曲輪から堀底へ降りて、御前曲輪西側石垣を撮影。この箇所だけ石垣が残っている。石材は城山の西側を流れる榛名白川の川原石を用いたとされる。

箕輪城134御前曲輪西堀石垣.jpg

⑥御前曲輪西側の堀底を南下する。堀幅は30~40m、深さ10mはあるとのこと。画面右の御前曲輪と左の通仲(とおりなか)曲輪の間には木橋が架けられていた。

箕輪城137御前曲輪西堀切.jpg

⑦本丸・蔵屋敷の間の木橋跡。画面右の本丸西虎口と左の蔵屋敷の間には木橋が架けられていた。現在、木橋復元工事が着手されているはず(2020年度整備工事)。本丸西虎口城門(高麗門と推測)も将来復元する計画がある。

箕輪城143本丸西虎口木橋跡.jpg

⑧堀から上がって西側の三の丸へ。三の丸門跡を外側から撮影。このあたりにも石垣が残っている。

箕輪城148三の丸石垣.jpg

⑨三の丸から西へ下り、石垣の残る鍛冶曲輪、虎韜(ことう)門跡まで降りた後、南側の大堀切を東へ登って行くと最初に訪れた郭馬出に戻る。大堀切から郭馬出方向を撮影。

箕輪城157大堀切.jpg

箕輪城滞在2時間弱で退城、群馬バス:城山入口13時59分発→高崎駅前14時49分(現在は13時29分発→14時20分着)で帰途につく。面積が広いので、下草刈り・間伐など維持管理が大変と思われる。なお、曲輪名称・解説等は主に高崎市のパンフレット(高崎市ウェブサイト)によった。

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太田金山城 2018.3.3 [群馬県]

関東の石垣造りの城として有名な太田金山城を訪れたのは2018年3月3日(土)のこと。都内から東武伊勢崎線の特急りょうもう(北千住駅10時32分発→太田駅11時48分着)で群馬県太田市へ。金山ふもとまでのバス路線はないため、タクシー(徒歩だと30分程度か)で登山口の金山城跡ガイダンス施設まで向かう。山頂への登山ルートはいくつかあるが、ガイダンス施設から西城の駐車場横にでるハイキングコースを登る(15分程度)。最後の登りがきつい。

①見附出丸。西城エリアからさらに西側の曲輪で北条氏によって築かれたものとされる。虎口(出入口)が両側にあり丸馬出のようでもある。発掘調査後整備されている。

太田金山城004見附出丸.jpg

太田金山城は、金山(標高236m)に新田一族の岩松家純によって1469年に築城(「松陰私語」(しょういんしご)という古記録で築城時の記事が残されている)されたもので、その後、家老の由良氏が取って代わり、上杉氏・北条氏・武田氏の勢力争いの中で生き抜いてきたが、1584年に北条氏の圧迫により城を明け渡し北条氏の支城となり、1590年の豊臣秀吉の北条氏攻略に伴い廃城となった。よって最後の城主の北条氏の遺構が多いのではと推測される。

②食違い虎口。見附出丸から西城への出入口。

太田金山城007西城喰い違い虎口.jpg

③西矢倉台西堀切。西城から東へ向かう第一関門の堀切、底が石敷の通路となっている。

太田金山城009西矢倉台西堀切.jpg

④西矢倉台下堀切。東へ向かう第二関門の堀切。

太田金山城014西矢倉台下堀切.jpg

⑤物見台下虎口。東へ向かう第三関門、堀切を渡る土橋の先に石造りの虎口がある。頭上には物見台がある。

太田金山城020物見台下堀切.jpg

⑥馬場曲輪。大手虎口前の曲輪。

太田金山城028馬場曲輪.jpg

⑦月の池。馬場曲輪から大手虎口に向かうと虎口前に月の池がある。

太田金山城029馬場曲輪より月ノ池.jpg

⑧大手虎口。土砂に覆われていたが、近年、発掘調査され石垣が復元整備された。虎口部分だけではなく通路に沿って両側に石垣がそびえる不思議な雰囲気。

太田金山城034実城大手虎口.jpg

⑨日の池。大手虎口を登り切ったところに日の池がある。戦勝祈願などの儀式に用いられた神聖な池と推測されている。

太田金山城039日ノ池.jpg

⑩本丸(実城)。大ケヤキの先に本丸(実城)がある。現在は、本丸内に新田神社が鎮座する(1875年創建)。

太田金山城042大ケヤキ.jpg

⑪本丸下石垣。部分的に石垣が残っている。かつては石垣が巡っていたのだろうか。

太田金山城044本丸北石垣.jpg

山上滞在は1時間30分程度で14時過ぎに下山、帰途についた。

石垣の築城者はだれなのか興味のあるところである(由良氏?北条氏?八王子城にも石垣がある)。


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