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龍岡城 2021.11.6 [長野県]

JR小海線で小諸駅発1337分→龍岡城駅(標高700m)1411分着。ここから南東方向に20分ほど歩いて行くと龍岡城跡(標高723m)に達する。途中に城下の北西入口にあたる枡形虎口が残されている。
①枡形虎口跡(内側から)。右折して直進する枡形虎口の石垣が残されている。街道を押さえる関所のような雰囲気。
龍岡城105枡形.jpg
さらに進んで龍岡城跡へ。龍岡城は函館五稜郭とともに国内に二つしかない星形稜堡(突き出た稜堡を5箇所持つ)で、大給(おぎゅう)松平乗謨(のりかた)によって明治維新直前の18641867年に陣屋(大給松平氏は城の持てない大名)として築かれたもの。1871年に廃城となり、建物は台所を除いて払い下げられ、堀は埋められ土塁も大半削平されたが、193233年に堀と土塁の復元が行われ、1934年に国史跡に指定された。一方、内郭敷地の大半は学校用地となり現在の佐久市立田口小学校に繋がっている。
西隅から時計回りに北側→東側→南側へ廻る。
②西稜堡。ここに唯一の砲台があった。石垣は、函館五稜郭と同様に切石を用いた切込接ぎで石垣上端部が突き出ている。このあたりの石垣は六角形の亀甲積みとされる。西側から南側にかけての堀は未完成だった。西側は低くなっているので水堀を廻らすのは難しかったのでは?
龍岡城107北西隅.jpg
③黒門跡。西稜堡と北稜堡の間の北西側虎口。水堀はこの石橋の左までで終わっている。
龍岡城111黒門跡(北西).jpg
ここから城内(校内)に入ると右側に台所がある。
④台所。学校校舎として利用された後、現在地に移築され保存修理された。
龍岡城114台所.jpg
⑤御殿跡、といっても現在は学校のグランド。大広間は佐久市落合時宗寺本堂に移築されている。
龍岡城116内部.jpg
黒門跡から外に出て、水堀沿いに進み北稜堡へ。
⑥北稜堡。
龍岡城118北東隅.jpg
⑦表門(大手門)跡。北稜堡と東稜堡の間の北東側虎口。虎口が奥に引っ込むのにあわせて水堀も奥に折れている(横からの射撃を意図したものか?)。
龍岡城123大手門前.jpg
⑧東稜堡。水堀に鯉の姿が見える。このあたりに水の取り入れ口があるようだ。
龍岡城124南東隅.jpg
⑨東通用門跡。東稜堡と南東稜堡の間にある南東側虎口。虎口と水堀が奥に引っ込んでいるのは大手門と同様。東通用門は佐久市野沢薬師寺山門に移築されている。
龍岡城125通用門.jpg
⑩南東稜堡。水堀はこの先の途中で終わっている。
龍岡城127南隅.jpg
あとは南西稜堡だが、時間が少なくなったのでここまでで引き返し、五稜郭であいの館に立ち寄って退城、JR小海線で龍岡城駅発1517分→佐久平1536分着、北陸新幹線に乗換え帰路についた。なお、佐久市臼田地区の小学校統合にともない田口小学校は2022度末に閉校、その後、学校施設は解体撤去し、竣工時の龍岡城にできる限り近い状態に戻すことを佐久市では検討している。

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小諸城 2021.11.6 [長野県]

15年ぶりに小諸城を訪れる。2021116日(土)、しなの鉄道で軽井沢駅1114分発→小諸駅着1138分着。
①浅間山を車窓から撮影。

小諸城1138浅間山 (2).jpg
小諸城は戦国時代に起源を持つが、石垣や天守を持つ近世城郭に改造したのは仙石秀久の城主時期(15901614年)とされる。明治になって廃城後、城跡の主要部分は懐古園となった。現在、櫓門二棟が重要文化財、小諸城址懐古園は小諸市名勝(史跡ではない)に指定されている。まず、前回訪問時には解体修理工事中(20042008年)だった大手門へ。大手門は駅の北東方向、市街地となっている三の丸跡の北東隅にある。
②三の丸大手門。大手門は1612年に築かれたとされ、明治期には料亭や小諸義塾の仮塾舎として利用された。1993年に重要文化財に指定された後、解体修理により江戸時代(1720年修理時)の姿に復原された。二階内部は資料展示スペースとなっている。
小諸城1104大手門.jpg
この後、線路の西側の懐古園へ移動。紅葉シーズンで人出は多い。
③三の門(2006年の画像と比較)。1742年の大洪水で流出したあと1765年に再建されたもので、1993年に重要文化財に指定された。現在、南側付塀・石垣は災害復旧工事中(20233月までの予定)。前回訪問時との違いは屋根の鯱がなくなったこと(災害で失ったのだろうか?)。
小諸城1112三の門.jpg
三の門料金所から園内に入ると右側に二の丸石垣が迫っている。
④二の丸石垣。現地説明板によれば、このあたりの石垣は明治期に街道整備に利用されたため火山灰の崖のままとなっていたが、1984年に当時より大きな石を用いて復元した、とある。
小諸城1116二の丸石垣 (2).jpg
この先の枡形虎口の二の門跡を通り西進し、黒門橋を渡り、黒門(一の門)跡を通ると石垣で囲まれた本丸に達する。本丸内は懐古神社となっている。本丸北側石垣の外周に沿って西進し天守台へ。
⑤天守台。本丸石垣の北西隅が天守台となっている。野面積みで隅角部が突き出て湾曲しているのが特徴。
小諸城1125天守台.jpg
北西に進み水の手展望台へ。展望台の直下に門跡がある。
⑥水の手不明門跡を真上から撮影。立入はできないようだ。
小諸城1131水の手不明門跡.jpg
⑦千曲川を水の手展望台より撮影。城の西側は千曲川が迫る断崖となっている。
小諸城1132水の手展望台より.jpg
本丸南側の崖を動物園側から撮影しようと思ったが、動物園はリニューアル工事で20224月末まで休園中で入れないので、料金所前まで戻り撮影。
⑧本丸南側の崖。浅間山の火山灰台地が浸食された谷(田切地形)を利用した空堀となっている。
小諸城1137本丸南側崖.jpg
駅前のカフェで休憩後、1337分発のJR小海線で次の目的地:龍岡城へ向かう。


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上田城 2021.10.2 [長野県]

松代からバスで長野駅まで戻り北陸新幹線で上田へ。上田駅北口(お城口)から坂道を上り、まず藩主居館跡へ。
①藩主居館跡。現在は上田高校の敷地となっているが、表門と堀・土塁・土塀の一部が残る(上田市文化財)。関ヶ原合戦後に上田城は破却されたため、上田領を受け継いだ真田信之はここに居館を構え、歴代藩主の仙石氏、松平氏も居館として使用した。東側に残る表門は1790年に再建されたもの、土塀は竹矢来にかえて1863年に建てられたものだが、石積は現代のもの。
上田城105居館.jpg
西に進み、二の丸へ。
②二の丸堀と東虎口。二の丸は土塁囲いで虎口のみ石垣造りとなっていた。東虎口は、本来は枡形虎口だったが明治以降に改変されている。二の丸堀東側は、昭和期に上田交通真田傍陽(そえひ)線として利用され、現在はケヤキ並木遊歩道となっている。
上田城108二の丸東虎口.jpg
さらに西に進み本丸へ。
③本丸東虎口。画面左から南櫓・櫓門・北櫓と並ぶ。チケットを購入し見学することができる(靴を履いたまま)。
上田城179本丸東虎口 (2).jpg
真田昌幸により1583年に築かれた上田城は関ヶ原合戦後に破却されそのままとなっていたが、信之のあと城主になった仙石忠政が1626年から復興工事に取りかかったものの1628年に病死して中断となった。このとき本丸に築かれた二重櫓7棟、櫓門2棟は幕末まで維持補修されていたが、明治になって払い下げられ、西櫓を除き移築又は解体された。北櫓・南櫓は城外に移築されていたが19421949年にかけて再移築・復旧したもの(県指定文化財:長野県では県宝という)。櫓門は1994年に古写真等に基づき復元されたもの。
④本丸東堀南端石垣を土橋から撮影。土橋より南側は空堀だが水抜き穴が開いている。
上田城114本丸南東堀石垣.jpg
⑤本丸上段と下段の段差石垣。本丸を北側と南側に二分する段差石垣。明治期に本丸一帯を取得した丸山氏が下段を松平(しょうへい)神社に寄付し神社が建立された(戦後、歴代城主を合祀することになり上田神社、さらに眞田神社と改称)。松代城に比べ来城者が多い理由の一つには神社参拝する方が多いこともありそうだ。
上田城133本丸仕切.jpg
⑥本丸土塁西側。本丸上段は小高い土塁に囲まれている。真田氏沼田城には天守があったので、真田氏上田城にも天守があった可能性はあるが、北西隅にあったのかもしれない(西側の堀底から金箔の付着したシャチホコの破片が出土)。
上田城131西土塁.jpg
⑦本丸西虎口。画面右が西櫓(県宝)。往時は画面左に櫓門と二重櫓がある枡形虎口だったが、明治期に左側の櫓台石垣は解体搬出されて失われた。
上田城140本丸西虎口.jpg
本丸から崖沿いの坂道を降りて尼ヶ淵へ。
⑧本丸西虎口土橋南側。下方に排水溝がある。尼ヶ淵に降りる途中で撮影。
上田城145本丸西土橋.jpg
⑨尼ヶ淵よりの景観。上田城は千曲川に浸食された上田泥流層段丘端に位置し、本丸南側は約12mの崖となっており尼ヶ淵と呼ばれている。
上田城156尼ヶ淵.jpg
本丸西虎口前に戻って、二の丸西虎口跡へ。ここの石垣は失われているが堀と土塁の遺構は残っている。さらに、二の丸北虎口へ。
⑩二の丸北虎口。石垣は1993年までに復元整備されたもの。喰違虎口のように見えるが、正保城絵図を見ると本来は枡形虎口だったようだ。
上田城165二の丸北虎口.jpg
⑪二の丸北虎口土橋西側。土橋の端に石樋が残っている。土橋西側一帯は、現在、陸上競技場となっているが、往時は百間堀という大規模な堀があった。
上田城167北虎口土橋西側.jpg
⑫本丸北東隅。丑寅(北東)隅は「鬼門除け」(鬼が出入りする方角を忌み嫌う)として角を切り込み、隅櫓2棟をその両脇に築いており、隅欠(すみおとし)とよばれる。現在、この2棟の櫓を復元する計画があり(本丸東虎口前の武者溜りも復元する計画)、上田市では資料を募集中。
上田城173北東隅堀.jpg
上田滞在は約110分間、市立博物館はかなりとばして帰路についた。なお、本記事の解説内容はおもに現地説明板と上田市ウェブサイトによりました。


 


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松代城 2021.10.2 [長野県]

10月とはいえまだ暑い日が続きますが、緊急事態宣言が解除されたので、2021102日(土)、真田氏にゆかりの松代城と上田城を訪れることに。まず、松代城へ。北陸新幹線で長野駅に到着、長野市観光情報センターで散策マップを入手、善光寺口から松代行き路線バス(アルピコ交通)で松代駅へ(通常30分程度、渋滞時は40分以上)。松代駅バス停は2012年に廃線となった長野電鉄屋代線の駅舎前にある。ここから一般的なルートではないが、線路跡地の駐車場を横断し、松代城石場門跡へ。

松代城は、川中島合戦に際し1560年に武田側の前進基地として千曲川右岸の自然堤防上に築かれた海津城がはじまりとされ、1582年の武田氏滅亡後、森長可、上杉景勝の支配を経て、城主となった田丸直昌(15981600年)、森忠政(16001603年)の頃に本丸周囲の石垣が構築されたとされる。その後、松平忠輝・忠昌、酒井忠勝を経て1622年に真田信之が城主となり明治維新まで真田氏の居城となった。明治維新後、建物は取壊しや火災で失われ、払い下げられた城地は土塁や堀も整地され桑畑となったが、のちに本丸跡地は真田家が取得し公園として保全された。1981年に国指定史跡となって以降、長野市による発掘・資料調査を経て19952004年に石垣修復、太鼓門・北不明門の復元、堀・木橋・土塁の復元が行われ、現在の姿となった。

①城内に掲示されている幕末頃の想像図(画面下が北)。黄線で現在の長野電鉄屋代線跡を加えたが、2箇所の丸馬出・三日月堀は廃線跡に重なっている。これらの丸馬出・三日月堀は武田氏時代に起源を持つものなのだろうか。

松代城117全体説明板 (2).jpg

②石場門跡。二の丸東虎口で、前面に丸馬出・三日月堀があった。第2期整備構想で櫓門と丸馬出を復元の予定。画面左側は廃線跡で復元土塁が途切れているが、こちらも第2期整備構想で復元の予定。

松代城104石場門跡.jpg

二の丸を北方向に進み本丸の北側へ。

③本丸北東隅石垣。石垣は主に野面積みで隅角部は大きめの石を用いた算木積みとなっており初期に築かれたものと思われる。信之時代の平面図によると石垣上に綿蔵があったが、その後の絵図には何も描かれていない。

松代城114本丸北東隅 (2).jpg

さらに北側へ進む。

④百間堀跡(画面右)。かつての千曲川はこのあたりを流れていたが、1742年に城内が洪水被害を受けたため、西側に川筋を付け替え、旧河道の一部を百間堀とした。

松代城119百間堀.jpg

本丸北側に戻り、西側の二の丸へ通じる埋門へ。

⑤土塁と埋門。本丸北西隅から二の丸北側を囲う土塁と埋門が絵図に基づき景観復元された。

松代城123埋門 (2).jpg

⑥本丸北西隅石垣(戌亥櫓台)。城内最高所で当初は天守があった可能性もありそうだが、江戸時代の絵図には二階櫓(信之時代の平面図によると行桁4間、梁間2間)が描かれている。石垣は野面積みで隅角部は大きめの石を用いた算木積みとなっており初期に築かれたものとされる。

松代城127戌亥櫓台 (2).jpg

北不明(あかず)門から本丸へ入る。

⑦本丸北不明門。本丸北の枡形虎口で、石垣は打込み接ぎ、高麗門と櫓門のセット(横から入り枡形内で右折)となっており、松平忠輝以降の時代に改造されたものと思われる。建物は発掘調査と江戸時代の絵図面に基づき復元された。屋根は栩(とち)葺きでサワラ材を重ねて葺いているとのことでたいへん珍しい。善光寺三門に習ったのだろうか。

松代城137北不明門枡形.jpg

⑧本丸西内側石垣。このあたりは野面積み。本丸内には本丸御殿があったが、1717年の火災による焼失後、その機能は城域南西側の花の丸御殿に移された。

松代城151本丸西内側.jpg

本丸を南方向へ進み太鼓門から出る。

⑨本丸太鼓門。本丸南の枡形虎口で、石垣は打込み接ぎ、高麗門と櫓門のセット(正面から入り枡形内で右に寄り直進)となっており、松平忠輝以降の時代に改造されたものと思われる。建物は北不明門同様に復元されたもの。門前の橋も発掘調査と絵図面に基づき復元されたもの。

松代城163太鼓門.jpg

二の丸南門跡を通り丸馬出跡へ。

⑩南門前の丸馬出と三日月堀跡。このカーブしている道は南門前の丸馬出へ向かう西側の通路にあたり、馬出と三日月堀跡はこの右側で現状は廃線跡地の駐車場等になっており、第2期整備構想で復元される予定。

松代城174三日月堀跡.jpg

このあと南方向に「歴史的道すじ」を3分ほど進み文武学校へ。

⑪正面に松代藩文武学校、左に真田勘解由家、右に旧白井家表門(移築)を南側から撮影。

松代城178文武学校前.jpg

文武学校は松代藩士の子弟が学ぶ藩校として1855年に開校、明治維新後も学校として利用され、各種武道場・文学所等ほぼ全ての建物が現存(国史跡)しており、見応えがある。文武学校を出て東方向へ進み、旧樋口家住宅を通過し、左折して新御殿へ。

⑫新御殿(真田邸)内部。画面左が庭園。

新御殿107縁側廊下.jpg

新御殿は幕末の参勤交代制度緩和にともない妻子の帰国が許されたことから、藩主幸教が義母貞松院のために1864年に建てたもので、のちに幸教の隠居所となり、明治以降は真田家の私邸となった。現在は松代城跡とセットで国史跡に指定されている。このあと、真田宝物館に立ち寄るつもりだった(共通チケット)が、時間がなくなり断念しバス停に急ぐ。正味滞在時間90分では短すぎた。なお、本記事の解説内容は、各種パンフレット、現地説明板、長野市ウェブサイトなどによりました。

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