龍岡城 2021.11.6 [長野県]
①枡形虎口跡(内側から)。右折して直進する枡形虎口の石垣が残されている。街道を押さえる関所のような雰囲気。
さらに進んで龍岡城跡へ。龍岡城は函館五稜郭とともに国内に二つしかない星形稜堡(突き出た稜堡を5箇所持つ)で、大給(おぎゅう)松平乗謨(のりかた)によって明治維新直前の1864~1867年に陣屋(大給松平氏は城の持てない大名)として築かれたもの。1871年に廃城となり、建物は台所を除いて払い下げられ、堀は埋められ土塁も大半削平されたが、1932~33年に堀と土塁の復元が行われ、1934年に国史跡に指定された。一方、内郭敷地の大半は学校用地となり現在の佐久市立田口小学校に繋がっている。
西隅から時計回りに北側→東側→南側へ廻る。
②西稜堡。ここに唯一の砲台があった。石垣は、函館五稜郭と同様に切石を用いた切込接ぎで石垣上端部が突き出ている。このあたりの石垣は六角形の亀甲積みとされる。西側から南側にかけての堀は未完成だった。西側は低くなっているので水堀を廻らすのは難しかったのでは?
③黒門跡。西稜堡と北稜堡の間の北西側虎口。水堀はこの石橋の左までで終わっている。
ここから城内(校内)に入ると右側に台所がある。
④台所。学校校舎として利用された後、現在地に移築され保存修理された。
⑤御殿跡、といっても現在は学校のグランド。大広間は佐久市落合時宗寺本堂に移築されている。
黒門跡から外に出て、水堀沿いに進み北稜堡へ。
⑥北稜堡。
⑦表門(大手門)跡。北稜堡と東稜堡の間の北東側虎口。虎口が奥に引っ込むのにあわせて水堀も奥に折れている(横からの射撃を意図したものか?)。
⑧東稜堡。水堀に鯉の姿が見える。このあたりに水の取り入れ口があるようだ。
⑨東通用門跡。東稜堡と南東稜堡の間にある南東側虎口。虎口と水堀が奥に引っ込んでいるのは大手門と同様。東通用門は佐久市野沢薬師寺山門に移築されている。
⑩南東稜堡。水堀はこの先の途中で終わっている。
あとは南西稜堡だが、時間が少なくなったのでここまでで引き返し、五稜郭であいの館に立ち寄って退城、JR小海線で龍岡城駅発15時17分→佐久平15時36分着、北陸新幹線に乗換え帰路についた。なお、佐久市臼田地区の小学校統合にともない田口小学校は2022度末に閉校、その後、学校施設は解体撤去し、竣工時の龍岡城にできる限り近い状態に戻すことを佐久市では検討している。
小諸城 2021.11.6 [長野県]
①浅間山を車窓から撮影。
小諸城は戦国時代に起源を持つが、石垣や天守を持つ近世城郭に改造したのは仙石秀久の城主時期(1590~1614年)とされる。明治になって廃城後、城跡の主要部分は懐古園となった。現在、櫓門二棟が重要文化財、小諸城址懐古園は小諸市名勝(史跡ではない)に指定されている。まず、前回訪問時には解体修理工事中(2004~2008年)だった大手門へ。大手門は駅の北東方向、市街地となっている三の丸跡の北東隅にある。
②三の丸大手門。大手門は1612年に築かれたとされ、明治期には料亭や小諸義塾の仮塾舎として利用された。1993年に重要文化財に指定された後、解体修理により江戸時代(1720年修理時)の姿に復原された。二階内部は資料展示スペースとなっている。
この後、線路の西側の懐古園へ移動。紅葉シーズンで人出は多い。
③三の門(2006年の画像と比較)。1742年の大洪水で流出したあと1765年に再建されたもので、1993年に重要文化財に指定された。現在、南側付塀・石垣は災害復旧工事中(2023年3月までの予定)。前回訪問時との違いは屋根の鯱がなくなったこと(災害で失ったのだろうか?)。
三の門料金所から園内に入ると右側に二の丸石垣が迫っている。
④二の丸石垣。現地説明板によれば、このあたりの石垣は明治期に街道整備に利用されたため火山灰の崖のままとなっていたが、1984年に当時より大きな石を用いて復元した、とある。
この先の枡形虎口の二の門跡を通り西進し、黒門橋を渡り、黒門(一の門)跡を通ると石垣で囲まれた本丸に達する。本丸内は懐古神社となっている。本丸北側石垣の外周に沿って西進し天守台へ。
⑤天守台。本丸石垣の北西隅が天守台となっている。野面積みで隅角部が突き出て湾曲しているのが特徴。
北西に進み水の手展望台へ。展望台の直下に門跡がある。
⑥水の手不明門跡を真上から撮影。立入はできないようだ。
⑦千曲川を水の手展望台より撮影。城の西側は千曲川が迫る断崖となっている。
本丸南側の崖を動物園側から撮影しようと思ったが、動物園はリニューアル工事で2022年4月末まで休園中で入れないので、料金所前まで戻り撮影。
⑧本丸南側の崖。浅間山の火山灰台地が浸食された谷(田切地形)を利用した空堀となっている。
駅前のカフェで休憩後、13時37分発のJR小海線で次の目的地:龍岡城へ向かう。
上田城 2021.10.2 [長野県]
松代からバスで長野駅まで戻り北陸新幹線で上田へ。上田駅北口(お城口)から坂道を上り、まず藩主居館跡へ。
①藩主居館跡。現在は上田高校の敷地となっているが、表門と堀・土塁・土塀の一部が残る(上田市文化財)。関ヶ原合戦後に上田城は破却されたため、上田領を受け継いだ真田信之はここに居館を構え、歴代藩主の仙石氏、松平氏も居館として使用した。東側に残る表門は1790年に再建されたもの、土塀は竹矢来にかえて1863年に建てられたものだが、石積は現代のもの。
西に進み、二の丸へ。
②二の丸堀と東虎口。二の丸は土塁囲いで虎口のみ石垣造りとなっていた。東虎口は、本来は枡形虎口だったが明治以降に改変されている。二の丸堀東側は、昭和期に上田交通真田傍陽(そえひ)線として利用され、現在はケヤキ並木遊歩道となっている。
さらに西に進み本丸へ。
③本丸東虎口。画面左から南櫓・櫓門・北櫓と並ぶ。チケットを購入し見学することができる(靴を履いたまま)。
真田昌幸により1583年に築かれた上田城は関ヶ原合戦後に破却されそのままとなっていたが、信之のあと城主になった仙石忠政が1626年から復興工事に取りかかったものの1628年に病死して中断となった。このとき本丸に築かれた二重櫓7棟、櫓門2棟は幕末まで維持補修されていたが、明治になって払い下げられ、西櫓を除き移築又は解体された。北櫓・南櫓は城外に移築されていたが1942~1949年にかけて再移築・復旧したもの(県指定文化財:長野県では県宝という)。櫓門は1994年に古写真等に基づき復元されたもの。
④本丸東堀南端石垣を土橋から撮影。土橋より南側は空堀だが水抜き穴が開いている。
⑤本丸上段と下段の段差石垣。本丸を北側と南側に二分する段差石垣。明治期に本丸一帯を取得した丸山氏が下段を松平(しょうへい)神社に寄付し神社が建立された(戦後、歴代城主を合祀することになり上田神社、さらに眞田神社と改称)。松代城に比べ来城者が多い理由の一つには神社参拝する方が多いこともありそうだ。
⑥本丸土塁西側。本丸上段は小高い土塁に囲まれている。真田氏沼田城には天守があったので、真田氏上田城にも天守があった可能性はあるが、北西隅にあったのかもしれない(西側の堀底から金箔の付着したシャチホコの破片が出土)。
⑦本丸西虎口。画面右が西櫓(県宝)。往時は画面左に櫓門と二重櫓がある枡形虎口だったが、明治期に左側の櫓台石垣は解体搬出されて失われた。
本丸から崖沿いの坂道を降りて尼ヶ淵へ。
⑧本丸西虎口土橋南側。下方に排水溝がある。尼ヶ淵に降りる途中で撮影。
⑨尼ヶ淵よりの景観。上田城は千曲川に浸食された上田泥流層段丘端に位置し、本丸南側は約12mの崖となっており尼ヶ淵と呼ばれている。
本丸西虎口前に戻って、二の丸西虎口跡へ。ここの石垣は失われているが堀と土塁の遺構は残っている。さらに、二の丸北虎口へ。
⑩二の丸北虎口。石垣は1993年までに復元整備されたもの。喰違虎口のように見えるが、正保城絵図を見ると本来は枡形虎口だったようだ。
⑪二の丸北虎口土橋西側。土橋の端に石樋が残っている。土橋西側一帯は、現在、陸上競技場となっているが、往時は百間堀という大規模な堀があった。
⑫本丸北東隅。丑寅(北東)隅は「鬼門除け」(鬼が出入りする方角を忌み嫌う)として角を切り込み、隅櫓2棟をその両脇に築いており、隅欠(すみおとし)とよばれる。現在、この2棟の櫓を復元する計画があり(本丸東虎口前の武者溜りも復元する計画)、上田市では資料を募集中。
上田滞在は約110分間、市立博物館はかなりとばして帰路についた。なお、本記事の解説内容はおもに現地説明板と上田市ウェブサイトによりました。