備中松山城 2022.10.10 [岡山県]
岡山に帰省中の2022年10月10日(月)、7年ぶりに備中松山城を訪れる。伯備線特急やくもで岡山駅発11:05→備中高梁駅着11:39、駅(標高62m)からはタクシーで臥牛山中腹のふいご峠(標高291m)まで行き、そこから遊歩道を登る。まず、見えてくるのが中太鼓櫓跡。
①中太鼓櫓跡。麓の御根小屋(御殿・藩庁)との伝達中継地とされる。
中太鼓櫓跡からの眺望。
さらに急な坂道を登り大手門跡(標高391m)へ。
②大手門櫓台石垣の手前から三の丸と厩曲輪の石垣を見上げる。切り立った岩盤と石垣の組み合わせで構成されている見所。
上の厩曲輪側から見おろすとこんな感じ。
大手門跡を入って左折すると三の平櫓東土塀が見える。
③三の平櫓東土塀。画面左端から狭間5つ目までの部分が現存遺構、それ以降の部分は復元されたもの。
三の丸・厩曲輪の西側の坂道を上って行き、東に折れた所が黒門跡。
④黒門跡。この先を右に入ると厩曲輪、このまま進むと二の丸へ。
⑤二の丸石垣。巨石が使用されている。
特に大きい石垣がある二の丸入口の鉄門跡。
⑥二の丸から本丸南側を撮影。本丸南側の五の平櫓、本丸南御門、六の平櫓、土塀などが1997年に復元された。
本丸へ入るのは後にして、本丸東側を通って北側の水の手門跡から出て堀切・木橋を見に行く。
⑦水の手門跡を外側から撮影。ここを下ったところに堀切と木橋がある。
⑧堀切と木橋を北側から撮影。
この先に車井戸があり、さらに北方向に進むと天神の丸、大松山城跡、大池などの遺構があるが、ここで引き返す。
⑨二重櫓。天守北側の岩盤上に築かれている。
本丸南御門から本丸へ入り天守(標高430m)へ。
⑩天守。天守へは渡り廊下から入る。
天守2階。内部は意外と広い。
ふいご峠に戻ってタクシーを呼び、麓の御根小屋跡(現、県立高梁高等学校)へ。
⑪藩主御殿・藩庁だった御根小屋跡の上中門跡(現、高校の正門)前。正門から入った先の校内には小堀遠州作とされる庭園の一部が現存する。
このあと、武家屋敷、頼久寺庭園などを見ながら歩いて駅に戻り、15:06発の特急やくもで岡山駅に戻る。
[メモ]城は、高梁川中流域東岸の臥牛山の峰々(大松山、天神の丸、小松山、前山)に鎌倉時代から築かれてきたもので、毛利輝元支配下の1582年頃には小松山を中心に現在残る縄張りが造られたと考えられている。関ヶ原戦後、小堀氏の修築を経て、1683年に水谷(みずのや)勝宗が大改修を行い現在の姿となった。明治になって廃城後荒廃していたが、天守・二重櫓・三の平櫓東土塀が1941年までに修理されて旧国宝(現在、重要文化財)に指定、直近では2001~2003年に保存修理工事が実施されている(高梁市教育委員会『重要文化財備中松山城天守及び二重櫓保存修理工事報告書』2003年などによる)。
下津井城 2022.5.4 [岡山県]
岡山への帰省中の2022年5月4日、下津井城を訪れる。JR瀬戸大橋線で岡山駅10時37分発→児島駅11時15分着、下電バスの下津井循環線で児島駅11時30分発→下津井城跡入口11時46分着(実際は50分過ぎ)。
①南麓から見上げる城山。
下津井城は、岡山藩の支城として池田長政(輝政の弟)が1604~1606年に現在残る石垣造りの近世城郭に改造したが、1615年以降は廃城となり破却された。現在は岡山県史跡となっている。
自動車道路を10分ほど登って行き頂上近くで右折して遊歩道を東方向に進むと石垣が見えてくる。
②縄張り略図と今回の歩行ルート(オレンジ色)。下津井港を臨む丘陵(標高89m)の尾根に沿って西から東へ西の丸・二の丸(本丸の南半分を囲む)・本丸・三の丸・中の出丸・東の出丸と曲輪が連なっている。
③二の丸南石垣。隅角部の石垣は崩されている。画面左に大手虎口があるはずだが草木が繁茂してよく分からない(冬場でないと無理)。
④三の丸南石垣。残存状態が良好。現状残っているのは5mくらいだが、本来はもっと高かったようだ。
中の出丸を廻った後、三の丸へ(東の出丸は遠いので割愛)。
⑤三の丸から二の丸東側への通路。画面右(北側)に石塁が残る。用途は何だろうか?
石段を登り本丸へ。
⑥本丸天守台。本丸の北西隅に天守台とされる石垣が残る。石垣の規模は小さいが、慶長年間の備前国図には5層の建物が描かれている(5層は現実的とは思えないが、天守があるという意味だろうか)。
本丸の発掘調査では唐津焼や土師器皿などが出土、本丸や二の丸では岡山城跡と同笵の瓦が出土している。石段を降りて二の丸西側へ。
⑦二の丸西側の石塁。多聞櫓台だろうか?
⑧二の丸から西の丸への土橋。
⑨西の丸からの瀬戸内海の眺め。海上交通監視の適地なので支城として整備したのだろう。
⑩西の丸北石垣。5月初旬になると草木が繁茂して遺構が見えにくい。山城はやはり冬場に限ると思ってしまう。
1時間に1本の循環バスに間に合うよう下山し、12時46分発(実際は50分過ぎ)のバスで帰路についた。なお、本記事の解説内容はWebで公開されている『岡山県中世城館跡総合調査報告書第1冊-備前編-』(岡山県古代吉備文化財センター編、2020年発行)によりました。
津山城 2021.10.31 [岡山県]
①吉井川越しに津山城南面を撮影。上から本丸石垣と備中櫓(2004年復元)、二の丸石垣、三の丸石垣がひな壇上に並ぶ典型的な平山城の景観(標高は、本丸で約142m、麓の公園入口で約106m)。
津山城は、吉井川と宮川の合流点を見おろす鶴山(つるやま)に、1603年に美作国を領した森忠政が1604年から築城を開始し1616年頃完成したとされる。明治になって建物は取り壊され土地も払い下げられたが、城跡保存運動により1900年に鶴山(かくざん)公園として保存されることとなり、1963年には国史跡に指定された。津山城(津山城跡鶴山公園)は入園料310円を払って入る方式で、通常期の出入口は三の丸南側の冠木門跡だけなのでここに戻ってくる必要がある(繁忙期には北側の裏門が開く)。
②三の丸冠木門跡。
冠木門跡を入り枡形虎口内を180度左折して石段を登って三の丸内に入り、北進して表中門跡から二の丸へ石段を登ることになる。
③三の丸虎口から二の丸虎口への流れを三の丸南側から撮影。三の丸・二の丸・本丸と続くひな壇状の石垣が美しい。これらの枡形虎口の特徴は、折れの複雑化と平山城ならではの高低差を生かした高石垣上からの攻撃で攻め手を寄せ付けない構造で防御力が格段に進化した形態といえる。
④二の丸表中門跡。画面右の石垣上へ続く長大な櫓門があった。門跡前に自販機を設置するのはどうかと思う。
長い石段を登った後、90度左折してさらに石段を登り、90度左折して四足(よつあし)門跡から二の丸内に入る。
⑤二の丸四足門跡を二の丸内から撮影。四足門は薬医門で、廃城後、市内の中山神社の神門として移築され現存している。
本丸南側石垣下を東進して、二の丸から本丸への第一関門の切手門跡へ。
⑥切手門跡。ここにも画面右の石垣上へ続く長大な櫓門があった。
喰違状の石段を登り本丸南東隅に突き出た小曲輪を左折して表鉄門跡へ。
⑦表鉄門跡。左右の石垣を跨ぐ長大な櫓門があった。
90度左折して石段を登り本丸内へ入る。本丸内を西進し備中櫓内部を見学した後、天守曲輪へ向かう。
⑧天守曲輪北東隅を天守台から撮影。本丸の西側を石塁と土塀で区切って天守曲輪とし、西側と北側には二重櫓、多聞櫓、櫓門を配置する厳重な構え。
津山郷土博物館2階に展示している復元模型ではこんな感じ。
⑨復元模型の西面。中央部分が天守曲輪。
⑩月見櫓台石垣。本丸東側にそびえる高石垣の北端に月見櫓があった。現在、二の丸東側石垣の修復工事中(2022年7月末まで)のため、本丸の東側と北側は石垣置き場になっているようで立入できない。
搦め手口の埋門跡から下りることにする。搦手側も連続する高低差のある枡形虎口となっており、見応えのある場所だが人通りが全くない。
⑪本丸埋門跡。埋門という名称だが櫓門だった。
石段を下りて左折すると裏鉄門跡へ。
⑫裏鉄門跡を外側から撮影。
このあとは長い石段を下る。
⑬裏中門跡へ続く長い石段。右下に折れた所に石垣を跨いだ櫓門の裏中門があった。画面左は天守曲輪へ通じる帯曲輪。
裏中門を出たところが二の丸の北側にあたる。西進して、裏下門跡から三の丸へ下りる。
⑭裏下門跡。手前の櫓台から右上方向に櫓門があった。
裏下門を出て、二の丸石垣に沿って二の丸南西隅を回り、冠木門跡から退城。このあと、津山郷土博物館2階で復元模型などを見て、津山線で帰路につく(14時34分津山発→16時2分岡山着)。