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高山陣屋 2024.4.1 [岐阜県]

高山城跡から近道を下りて中橋を渡ると高山陣屋に到着します。表門前までは観光客で混雑していましたが、中に入ると意外に空いています。
御役所玄関(1816年改築)。
高山陣屋102玄関.jpg
屋根は、木を薄く割った板を重ねて葺いた板葺きで、「榑(くれ)葺き」というのだそうです。細かくいうと、大部分は「半榑熨斗(はんくれのし)葺き」、玄関庇部分は「杮(こけら)葺き」だそうです。寒冷地で雪や凍結に耐えられるように工夫したものなのでしょうか。
玄関から入り、脱いだ靴を持って内部を反時計回りに見学するコース(40分ほど)となっています。
御役所。狭義の御役所(役人たちの執務空間)。
高山陣屋104御役所.jpg
復元された役宅(代官・郡代の居住空間)。居間の上は3階建ての物見になっています(階段は上がれません)。
高山陣屋108居間・座敷.jpg
役宅の庭園越しに見る御蔵。この蔵は、高山城三之丸から移築されたもので、屋根は「石置き長榑(ながくれ)葺き」といい、御役所の屋根の板より長く厚い板を用いて釘を使わず石を置いているそうです。
高山陣屋110庭園・御蔵.jpg
広間。御役所の西側は三間続きの大広間となっています。
高山陣屋111広間.jpg
最後に展示室に区切られている御蔵を見て廻ります。榑葺きについての詳しい説明もあります。
[メモ]1692年に飛騨国が幕府直轄領になると金森家の下屋敷のあった場所を、幕府が飛騨統治の拠点として整備したのが高山陣屋です。明治維新後、主要建物は行政機関の事務所として利用され、一部は撤去され庁舎が建てられましたが、19701996年の復元整備工事により江戸時代の姿がよみがえりました。高山陣屋は国史跡に指定されています。



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高山城 2024.4.1 [岐阜県]

高山市街地に戻って、宮川の東側にある高山城跡を訪れます。高山城は、三木氏滅亡後の1586年に飛騨国に配置された金森長近が天神山城跡に1588年から築城を開始し1603年に完成したとされます。その後、1692年には飛騨国は幕府直轄地となり、城は1695年に完全に破却されました。城跡は岐阜県史跡となっています。
城跡北端の三之丸堀(標高581m)。現在、三之丸跡には城山児童センターや神社があります。金森氏時代にここにあった米蔵は1695年に高山陣屋に移築され現存しています。
高山城101三の丸堀.jpg
南方向に坂道を登り二之丸跡へ。
城山公園となっている二之丸東側(標高616m)。二之丸は東西2箇所の平坦地にあり、東側には金森氏時代末期には庭樹院殿(藩主の母)屋敷がありました。
高山城104二の丸東.jpg
公園の裏手から10分ほど遊歩道を登ると、本丸東北腰曲輪に着きます。
③本丸東北腰曲輪入口。高山城は完全に破却されたため石垣遺構はほとんど残っていないのですが、ここでは矢穴痕のついた石垣遺構を見ることができます。
高山城109本丸東北腰曲輪前.jpg
④本丸東北腰曲輪から見る本丸下段。かつてはこの法面に石垣が築かれていたようです(左側に少し残っています)。右の道は搦手口にあたります。
高山城113本丸下段前.jpg
本丸下段から見る本丸上段(標高686m)。石垣の一部が復元されています。本丸上段には平面一杯に本丸屋形が建てられていました。
高山城116本丸上段.jpg
本丸上段南東隅の石垣遺構。良く残っています。土砂に埋もれていたのでしょうか。
高山城121本丸上段南東面石垣.jpg
本丸大手口。本丸南側のジグザク道が大手口です。古絵図では門が3箇所あり連続枡形虎口になっていたようです。
高山城124大手道.jpg
城跡西側中腹の遊歩道を北方向へ進むと二之丸西側に至ります。
二之丸西側。ここには二之丸屋形(藩主居所)がありました。現在は照蓮寺になっています。
高山城125二の丸西.jpg
ここから狭い坂道を西方向へ下って行くと宮川に架かる中橋に出ることができます。
[メモ]1692年に幕府直轄領になってから1695年に城が破却されるまで、加賀藩が城番を勤め詳細な平面図を残しており、そこから当時の様子を知ることができます(正は石川県立図書館ウェブサイト、写は高山図書館ウェブサイト)。



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松倉城(飛騨) 2024.4.1 [岐阜県]

高山市街地の南西方向にある戦国時代末期の石垣造りの山城、松倉城跡(標高856m)を41日早朝に訪れます。麓の飛騨の里(標高637m)までは高山濃飛バスセンターから9時にバスが出るのですが、それより早く駅前からタクシーで山頂近くの松倉シンボル広場(標高794m)まで行きます。運転手さんからは、クマはまだ出ないと思うが、クマ除けの鐘や木をたたきなさいとのアドバイスをいただきました(クマ除け鈴は持参)。松倉シンボル広場から東方向に5分ほど遊歩道を登って行き、堀切を過ぎるとその先に三の丸石垣が見えてきます。
三の丸南西隅石垣。上段の天端石は落とされているようですが良く残っています。巨石が使われていますが、この山から切り出された石材でしょうか。
松倉城104三の丸南西隅.jpg
三の丸埋門跡。発掘調査により、この三の丸北西側では石塁と巨石を用いた埋門の壊された跡(破城の痕跡)が見つかりました(ブルーシートで覆われています)。背後の石垣は本丸外曲輪西面石垣です。
松倉城108三の丸北西側.jpg
三の丸南西隅櫓台跡。最初に見た石垣の上にあります。
松倉城109三の丸西南隅櫓台.jpg
三の丸の南下の曲輪の虎口跡。発掘調査により、虎口が石材で埋められて塞がれた跡(破城の痕跡)が見つかりました。
松倉城114三の丸南石門跡.jpg
本丸へ登ります。
本丸外曲輪南東隅石垣。本丸の西面・南面直下の曲輪は本丸外曲輪と呼ばれており、石垣が良く残っています。
松倉城120本丸外曲輪南東隅.jpg
本丸登り口。本丸の東側が登り口で、右が本丸、左が本丸外曲輪です。
松倉城120本丸虎口.jpg
本丸虎口。巨石が使われています。本丸は内側も低い石塁で囲まれていますが、発掘調査では礎石は見つからなかったそうで天守のような建物はなかったようです。
松倉城123本丸虎口.jpg
本丸から北東方向の眺望。気温が高いためか北アルプスの山々ははっきりとは見えませんでした。
松倉城129北アルプス.jpg
本丸から下りて、東側の二の丸へ。
二の丸旗立岩。二の丸南東隅に旗立岩と呼ばれる飛び出た岩があります。二の丸からは礎石が見つかっているので建物があったようです。
松倉城141旗立岩.jpg
二の丸東面石垣。二の丸の東端は大手口とされています。この先を北に下って行くと飛騨の里に至るようです(現在は通行できないようです)。
松倉城139二の丸東面.jpg
来た道を引き返し、松倉シンボル広場からは遊歩道ルートを20分ほど歩き飛騨の里まで下山、バスで高山濃飛バスセンターまで戻ります。
[メモ]松倉城は、飛騨国を制覇しつつあった三木(みつき)自綱(姉小路頼綱)が1579年に築城、本能寺の変の後、反秀吉陣営に与したため、1585年に秀吉配下の金森長近に攻められて落城、その後しばらくして廃城になったようです。現在残る石垣の遺構は、金森氏が三木氏の城を石垣造りに改造したものではないかと考えられています。現在は岐阜県史跡ですが、2019年から国指定史跡を目指して発掘調査が行われています。



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富山城 2024.3.31 [富山県]

高岡城跡とは対照的にスクラップアンドビルドの富山城跡。富山駅から市内電車で5分、丸の内で下りるとすぐ南内堀前に着きます。
南内堀。左手前が西之丸跡、その奥が本丸跡。西之丸は本来、堀と土塁で囲まれて本丸と土橋で繋ぐ構造でしたが、廃藩置県後、土塁は崩され南面を除き堀は埋め立てられ公共施設用地となりました(現在は城址公園の一部)。
富山城107南内堀.jpg
本丸鉄(くろがね)門枡形石垣。南側の二之丸から土橋を通り本丸鉄門から入る構造で、富山城では、石垣はここと搦手門周辺、二之丸門周辺だけに用いられ、他は土塁造りでした。石垣は明治以降に積み直された部分が多いそうです。
富山城102本丸南西隅.jpg
鉄門枡形正面の鏡石。2石ありますが1石は松に少し隠れています。能登半島地震のため石垣崩落の危険があるとのことで土橋及び枡形内は通行禁止となっているため、富山城最大の見どころですが遠くから見るだけです。
富山城105鉄門枡形.jpg
④あとで郷土博物館側から見た鉄門枡形両脇の鏡石。左(東)に2石、右(西)に1石、ということで合計5石、陰陽五行説に基づく配置のようです(富山市埋蔵文化センターウェブサイト「富山城研究コーナー」)。
富山城114鉄門枡形.JPG
西の堀端から城址公園に入り、鉄門枡形本丸内側へ。
鉄門枡形本丸内側。通行禁止の規制ラインが設置されています。
富山城113鉄門枡形.jpg
枡形石垣上の天守風建物は、空襲被害からの戦災復興記念として1954年に建設された富山市郷土博物館(耐震工事済み)です。富山城の築城から明治以降の変遷が展示のメインとなっています。
郷土博物館から出て城址公園南東隅に向かいます。
本丸南東隅の天守建設予定地。災害が続き財政難で建設は見送られたようです。
富山城116天守台.jpg
本丸東側に移築された千歳御門があります。
千歳御門(市指定文化財)。東出丸のさらに東側に築かれた千歳御殿(1849年築)の正門で民間に払い下げられた後、2008年に移築されました。
富山城119千歳御門.jpg
千歳御門のあたりは江戸時代には土塁で、本丸東側の入口は東出丸と土橋で繋がっていた北側の搦手門でした。
搦手門跡周辺の石垣。石垣上には城郭風の佐藤記念美術館が建っていますが、左中央付近の石垣は寛文期(1661年~72年)の横目地の通る積み方が残っているとされます(「富山城研究コーナー」)。
富山城124搦手門石垣.jpg
帰りは富山駅まで歩き、高山に向け高山本線特急ひだに乗車します。
[メモ]郷土博物館『富山城ものがたり』によると、富山城は、神通川(当時は城の北を流れていた)の自然堤防の微高地に1543年に神保長職(ながもと)が築き、そののち越後上杉氏、織田家臣佐々成政の支配を経て、加賀前田家支配となり、1605年に前田利長が隠居城として大規模な改修を行い近世城郭として整備しました。しかし、1609年に大火で焼失したため利長は高岡城を築いて移転、1615年に一旦廃城となりました。その後、1639年に加賀藩から富山藩10万石を前田利次に分与、新城を築く予定でしたが断念し、1660年に富山城を居城として整備しました。ところで、富山城は本丸と東・南・西の曲輪と土橋で個別に繋ぐ構造ですが、高岡城は本丸の東から南の曲輪群を連結する構造です。利長が富山城の経験を生かして高岡城を築城したのでしょうか。



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高岡城 2024.3.31 [富山県]

「高岡古城公園景観再生プロジェクト」が2023年度から始まった高岡城跡を331日に訪れます。北陸新幹線富山駅で下りて、あいの風とやま鉄道で高岡駅へ、駅から北東方向へ15分ほど歩くと城跡南隅の堀端に到着。
南東側外堀の枡形堀。左手前が鍛冶丸、その奥が明丸ですが、樹木が生い茂って曲輪として分かりにくい状態です。今後、景観再生プロジェクトでどのように変わって行くのでしょうか。
高岡城101枡形堀.jpg
大手口から土橋を通り鍛冶丸にある高岡市立博物館に入り見学。
鍛冶丸から二の丸・本丸間の土橋東側石垣を撮影。石材は石灰質砂岩(富山湾西岸)、花崗岩、安山岩などだそうです。高岡城跡の石垣はこの土橋の両側のみに残っています。
高岡城109本丸土橋東側.jpg
鍛冶丸から西方向の土橋を通り二の丸へ、二の丸から土橋を通り本丸へ進み、本丸下の遊歩道(犬走?)へ下りて土橋西側石垣を見に行きます。
二の丸・本丸間の土橋西側石垣。石垣を間近に見ることができますが、残念ながら苔で覆われています。景観が整備されれば他にない撮影スポットになりそうです。
高岡城111本丸土橋西側.jpg
本丸内に戻って西進し、西外堀に架かる本丸橋を渡って堀端に出ます。
西外堀側から二の丸(右)・西内堀・土橋・本丸(左)を撮影。
高岡城114西外堀から本丸土橋.jpg
堀端を北方向に進みます。
本丸北隅。本丸北西側は台地の崖となっており、高低差は12mほどです。北隅は天守建設予定地だったと考えられています。
高岡城117本丸北西隅.jpg
堀端を東方向へ進み、三の丸へ。
三の丸から本丸東隅を撮影。景観再生プロジェクトで生い茂った樹木が伐採されて本丸の輪郭がはっきり、堀も広く見えます。
高岡城119本丸北東隅.jpg
三の丸から土橋を通って明丸へ。現在は動物園となっていますが、その裏側は土塁遺構が最も良く残っている場所です。
明丸土塁遺構。
高岡城122明丸北東土塁.jpg
明丸→鍛冶丸→二の丸を通って駐春橋を渡り退城。
高岡大仏、旧高岡共立銀行本店などを見学したのち、高岡駅から富山駅に戻ります。
[メモ]高岡城は、1609年に前田利長が隠居城としていた富山城の大火による焼失のため、新たに隠居城として千保(せんぼ)川(当時は庄川本流)がつくった沼沢地に接する台地上に築かれました。1615年の一国一城令により廃城となったあとも金沢藩高岡町奉行の管理下に保存され、明治の廃藩置県後には近代公園として整備され、2015年には国史跡に指定されました。本丸の南から東にかけて曲輪群を土橋で連結(連続馬出)して防御力を高めているのが特徴ですが、樹木伐採整理が進めばその特徴が実感できると思います。



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