SSブログ

深大寺城 2023.12.27 [東京都]

調布市の深大寺城跡を1227日に訪れました。深大寺城は、南は国分寺崖線、北と東は逆川により浸食されてできた谷に挟まれた台地上に位置する戦国時代の城跡で、2007年に国史跡に指定されました。現在は都立神代植物公園の水生植物園の園内に組み込まれています(フェンスで囲まれているため営業時間外は見学できません)。三鷹駅南口からバスに乗り深大寺小学校バス停で下車、そば処多聞の横が水生植物園の入口です。
水生植物園(逆川の流路・湿地)から城跡東面を撮影。高低差は13mほど(台地標高50m、低地標高37m)。
深大寺城1103水生植物園.jpg
遊歩道の南端から台地上へ登って腰曲輪へ。
東側の腰曲輪。ここから西へ進んで第1郭へ。
深大寺城1104腰曲輪.jpg
1郭。周囲は土塁で囲まれています。樹木が生い茂っており見晴しは利きません。
深大寺城1105第1郭.jpg
1郭北虎口。平虎口ですが、その脇の北西隅(樹木の茂っている高台)には櫓台がありました。郭は空堀と土塁で囲まれています。
深大寺城1109第1郭北虎口.jpg
北虎口から出たところが第2郭。第2郭は過去にテニスコート設置のため整地されましたが、その後、土塁が復元され、芝生公園となっています。
第2郭南土塁。なかほどに平虎口があり、その前面(現在は、民家)に馬出状の平坦面があります。
深大寺城1112第2郭南土塁.jpg
第2郭西側の空堀・土塁。第2郭とその西側の第3郭(現在は、テニスコートや民家)の間にある空堀・土塁で復元されたもの。本来、堀はもっと深かったようです。
深大寺城1115第2郭西土塁.jpg
第2郭北西空堀跡を見学するため、水生植物園から出て西側のテニススクール入口の道(=空堀跡)を上って行きます。
第2郭北西空堀跡。自然地形を利用したものかもしれませんが、急峻なクランク状の崖になっており、見応えがあります。
深大寺城1119第2郭北西空堀.jpg
このあと、お寺(深大寺)に寄って帰ります。
[メモ]峰岸純夫・齋藤慎一編『関東の名城を歩く南関東編』によると、文献史料と発掘調査から深大寺城は、扇谷上杉氏の城として1490年頃に「つなぎの城」(武蔵と相模の中継基地)として存在し、その後いったん廃城となり、小田原北条氏の進出を受けて1537年に再興したが、本城の川越城陥落により最終的に廃城となったようです。したがって、現在残る表面遺構は、1537年段階のものだそうです。



nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:旅行

奥沢城 2023.10.19 [東京都]

1019日、自由が丘へ行く機会があり、世田谷区史跡の奥沢城跡を訪れました。奥沢城跡は、九品仏川の南の台地上の築かれたもので、中世、世田谷城主吉良氏の家臣の大平氏の居城であったとされます(世田谷区教育委員会編『世田谷の中世城塞』1979年)。1590年の小田原北条氏滅亡後に廃城となり、その主郭部分を中心に1678年に浄真寺が建立されました。浄真寺は、三つの堂宇に三躰ずつの阿弥陀佛が安置されていることから「九品仏」として知られています。
渋谷駅から東急東横線で自由が丘駅下車、駅の南側の九品仏川緑道へ。
九品仏川緑道を西方向へ進みます。緑道は暗渠化した川の上に造られたもので、北側(画面右)が目黒区自由が丘、南側(画面左)が世田谷区奥沢となっています。
奥沢城101九品仏川緑道.jpg
緑道の西端は、「ねこじゃらし公園」となっています。このあたりは奥沢城の北西端にあたり、かつては水田や沼だったようですが、宅地化が進む中で唯一草地として保存されています。
奥沢城102ねこじゃらし公園.jpg
浄真寺の周囲には、城の主郭を方形に囲んでいた土塁遺構が廻っています。
奥沢城103土塁.jpg
西側と南側の土塁の外周を進んで総門からお寺に入ります。
浄真寺山門(仁王門)。1793年建立、世田谷区文化財となっています。紅葉時期は一段と素晴らしい雰囲気だと思います。この門の両側に東側土塁遺構が残されています(奥沢城跡の石碑あり)。
奥沢城104浄真寺山門.jpg
鐘楼後方の南内側土塁遺構。土塁遺構は良く残っています。
奥沢城105土塁.jpg
なお、現在、中品堂は耐震工事中のため、また、仏像の一部は修繕中のため、九躰全ての拝観はできません。帰りは南側の参道を通り、九品仏駅から帰路につきました。



nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:旅行

江戸城(4) 2023.1.30 [東京都]

江戸城の東側、常盤橋門跡から外桜田門までの散歩。まず、地下鉄大手町駅のA5出口から東進して常盤橋門跡へ行くと枡形内(常盤橋公園)は閉鎖されており入れない。公園整備工事と首都高日本橋区間地下化事業に伴う地下事前調査のため2023331日(予定)まで閉鎖とのこと。石橋の常磐橋には入れるので、鉄筋コンクリート橋の常盤橋経由で常磐橋へ。
①常磐橋と常盤橋門跡。
江戸城1906常盤橋門跡.jpg
常盤橋門跡は江戸城外堀(日本橋川)に架かる常磐橋ルートを固める枡形門(見附)跡で高麗門から入り枡形内を右折して櫓門を通る構造。外堀沿いの枡形門跡のなかで最も石垣の残存状態が良く(西側の石垣は失われているが)、1928年に国史跡に指定されている。常磐橋は1877年に木橋から石橋に架け替えられた。その後、関東大震災の被災修復を経て、東日本大震災により崩落の危険が生じたため解体修復工事が行われ20215月に通行が再開されている。
一石橋を渡り丸の内側へ西進、和田倉門跡へ。
②和田倉門跡。皇居外苑(西の丸下曲輪)北東隅の枡形門跡で、枡形石垣がきれいに残っている。手前の和田倉濠にはコブハクチョウが1羽生息している(このあと桜田濠で1羽見かけた。1953年に放鳥されたハクチョウの末裔が現時点では4羽ほど残っているようだ)。
江戸城1908和田倉門跡3.jpg
江戸城1911和田倉門跡.jpg
日比谷通りを南進して日比谷濠南東端へ。
③皇居外苑(西の丸下曲輪)南東隅。家康が江戸城に入った頃は日比谷入り江だったという雰囲気が感じられる日比谷濠。今はキンクロハジロの越冬地となっている。
江戸城1915西の丸下南東隅.jpg
江戸城1919日比谷濠キンクロハジロ.jpg
④日比谷公園心字池と石垣。心字池は堀跡を利用して造られたもので、この堀と石垣は江戸城の大名小路曲輪南張出部分の西面の残欠にあたる。
江戸城1916日比谷公園心字池.jpg
日比谷濠に沿って西進し外桜田門へ。
⑤外桜田門。西の丸下曲輪の南西入口となる。かつての日比谷入り江と西の丸台地との境界に立地し、枡形空間は城内最大規模(案内板には320坪と記載)、枡形の北面と西面半分には土塀がなく堀を隔てた西の丸西端の的場曲輪から攻撃する構造となっている。
江戸城1923外桜田門.jpg
江戸城1925外桜田門.jpg
帰りは最寄りの地下鉄桜田門駅から。



nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:旅行

江戸城(3) 2021.9.20 [東京都]

江戸城北西側の牛込門跡~北の丸周辺の散歩。2021920日(月)、東西線の飯田橋駅を起点にまず外堀(牛込濠)の外周(新宿区側)を南西方向に歩き新見附橋へ。

①飯田橋方向の牛込濠を新見附橋から撮影。新見附橋は明治時代になって牛込濠の中間部を仕切って造られたもの。このあたりの外堀は、1636年の第五次天下普請で牛込から赤坂までの江戸城西側外郭として造られたもの。2020東京オリパラ開催前にボートと排水配管を浮かべていたが(水質改善?)、どうなったのだろうか。

江戸城1802牛込濠.jpg

新見附橋から牛込濠の内周(千代田区側)の土手(外濠公園)を北東方向に歩き牛込門跡へ。

②牛込門跡をJR飯田橋駅の西口2階史跡展望テラスから撮影。牛込門は田安門を起点とする上州道の出口として1636年に築かれた枡形虎口。高麗門を入り枡形内を右折して櫓門を潜る構造で、現在は、画面左に高麗門脇の石垣と枡形石垣の一部、画面右に櫓門台の片側(櫓門の右側)が残る。

江戸城1812牛込門.jpg

早稲田通を南東方向に歩き北の丸田安門へ。

③北の丸田安門土橋。田安門付近は標高25mで下からの高低差は18mほどある(九段下は標高7m)。土橋は西側の千鳥ヶ淵と東側(画面手前)の牛ヶ淵の分水嶺のようで自然地形を生かしたもの。二つの淵は、鈴木理生「江戸はこうして造られた」によると1592年に飲料水用ダムとして造られたとされる。

江戸城1822田安門土橋.jpg

④北の丸田安門。高麗門を入り枡形内を右折して櫓門を潜る構造。北の丸は16061607年の第一回天下普請で造られたようで、江戸始図にも田安門と清水門の枡形虎口が描かれている。現在の高麗門は1636年建築のものとされ、櫓門も同時期のものとされる(二階部分は関東大震災で被災し、1960年代に復旧整備されたもの)。

江戸城1828田安門高麗門.jpg

9月末まで東京オリパラ関連工事のため櫓門から先は立入禁止のため、九段下に降りて清水門へ。

⑤北の丸清水門を上の崖から撮影。高麗門を入り右折して櫓門を潜り、さらに180度左に回って北の丸へ登る構造。現在の高麗門は1658年建築のものとされ、櫓門も同時期のものとされる(二階部分は明治初期には、1960年代に復元された)。土橋が牛ヶ淵と清水濠を仕切っている。

江戸城1844清水門見おろす.jpg

北の丸を南東方向に歩き本丸北桔橋(はねばし)前へ。

⑥本丸北桔橋。標高2030mの台地続きの北の丸と本丸を断ち切る深い濠・石垣となっている。「はねばし」というものの基本は土橋となっている。

江戸城1846本丸北はね橋.jpg

竹橋を渡り、外堀(日本橋川)と清水濠に挟まれた雉子橋門跡へ。

⑦雉子橋門跡付近の日本橋川沿いの外堀石垣。渦巻き状の外郭・外堀の起点として知られる。画面右側は埋め立てられているが、往時は門前まで切れ込んでいた。門は内堀通りに平行して造られていたが痕跡は残っていない。

江戸城1850雉子橋.jpg

日本橋川沿いに下り、一橋門跡へ。

⑧一橋門跡。外堀(日本橋川)を渡った所に高麗門、右折して櫓門のある枡形虎口があった。現在は枡形石垣の残欠が残っている。

江戸城1855一橋門.jpg

真っ直ぐ進み三の丸平川門・平川橋前へ。

⑨三の丸平川門・平川橋前。このあたりは標高4mで木橋となり周囲の石垣も低い。

江戸城1856平川門.jpg

東西線竹橋駅へ降り帰路につく。2時間ほどの散歩だった。

nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:旅行

勝沼城 2021.2.13 [東京都]

近隣の城めぐりが続きます。2021213日(土)、JR青梅線の東青梅駅で下車し北東方向へ10分ほど歩き、勝沼城へ。勝沼城は、青梅を扇頂とする多摩川扇状地を見おろす丘陵南端部に位置し、室町時代にこの地域を支配した三田氏の居城となっていた。三田氏は小田原北条氏により1561年に滅亡させられ、その後、城は北条氏によって使用されたようだが、1590年の豊臣秀吉の北条氏攻略後は廃城となった。現在は歴史環境保全地域(1975年)で東京都指定史跡(1993年)となっているものの、東側入口と南側入口の周辺はお寺の墓地となっており、そこから入るのは避けて光明寺・師岡神社の西側の道を上り、城山配水場付近の北西側入口から入る。

①光明寺前から城山を見上げる。山頂部の高台が本丸南側郭。城山は標高215m、比高30m。

勝沼城101全景.jpg

②北西入口にある案内図。今回の歩行ルートを表示。曲輪名称は案内板での仮称(二の丸、三の丸といった階層的表現は避けて、主郭、西郭、東郭1とした方が良いのでは)。

勝沼城204北西入口案内図.jpg

まず、二の丸の北・東側の外周路を進み、本丸・二の丸間の堀切を登り本丸北西側へ出る。

③本丸から北西方向の二の丸を見おろして撮影。本丸と二の丸は土橋で繋がっている。

勝沼城129本丸から二の丸.jpg

本丸・二の丸間の堀切を南西側に降りて二の丸西側堀底を進む。

④二の丸西側堀(画面右が二の丸側)。堀底は下草刈りされており歩きやすい。

勝沼城121二の丸西側堀.jpg

さらに、北西隅堀底を回り北側の馬出状郭まで進み、ここで引き返し本丸へ戻る。

⑤本丸・本丸南側郭間の堀切(画面左が本丸)。

勝沼城137本丸・本丸南郭間堀.jpg

⑥本丸南側郭からの眺望。南側は切り立った崖になっており、見晴らしが良い。

勝沼城133本丸南郭から.jpg

本丸東側の堀底へ降りて三の丸南西堀へ。

⑦三の丸南西側堀(画面左が三の丸)。堀底はきれいに整備されている。

勝沼城142三の丸南西側堀.jpg

⑧三の丸南馬出。南西堀底を抜けたところにある。馬出の北側堀は藪に覆われて進めない(土橋があるようだが)。

勝沼城145二の丸南馬出.jpg

三の丸自体は墓地となっているので立入は控えて、本丸に引き返す。帰りは本丸・二の丸間の堀切から続く竪堀道を下って下山。


nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:旅行

品川台場 2021.2.6 [東京都]

近隣の城めぐりの続きです。202126日(土)、新橋駅からゆりかもめに乗換え、芝浦ふ頭駅で下車、レインボーブリッジの遊歩道(サウスルート)を歩き品川台場へ。品川台場は、1853年のペリー来航に対応し江戸幕府が、江戸湾海防強化のため江川英龍の設計により品川沖から深川沖にかけて海上に建設した砲台。1854年に第一~三、五・六台場と御殿山下台場が完成したが、条約締結したこともあり経費節減のため第四・七台場は工事中止、第八~十一台場は未着手に終わった。明治維新後、海軍省→陸軍省を経て、第三・六台場は東京市へ払い下げられ、1926年に国史跡指定となり、1928年には第三台場は東京市によって台場公園として整備され開放された(当時は船で往来)。史跡指定外の台場は、戦後の高度成長期に、第一・五台場は撤去・埋立て(品川埠頭)、第二台場は撤去(航路化)された。

①レインボーブリッジ芝浦側から第六台場(手前側)、第三台場を撮影。前列に第一・二・三台場、斜め後列に第四・五・六台場が配置されていた。第二台場は画面右方向に配置されていた。

品川台場104第六・第三台場.jpg

②遊歩道から第六台場を撮影。五角形で外周の土塁上に大砲を配備、北西隅を出入口(船着き場)としていた。1923年の関東大震災被害は軽微で遺構は良好に保存されていると思われるが、立入禁止となっている。

品川台場111第六台場.jpg

③遊歩道から第三台場を撮影。こちらは四角形。関東大震災の被害は大きく、その後修復された。

品川台場123第三台場.jpg

レインボーブリッジの遊歩道を降りて第三台場へ。

④第三台場南東側石垣・土塁。石垣は切石による布積みで頂部は突き出ており、その上に土塁が築かれている。

品川台場131第三台場南東側石垣.jpg

⑤第三台場から第六台場南東面を撮影。第六台場の南東側石垣は、斜めに積む落し積み(谷積み)となっており、第三台場の切石による布積みとは異なっている。

品川台場138第六台場東側.jpg

⑥第三台場内部。内部には陣屋跡、火薬庫跡、かまど跡とされる遺構がある(砲架台を含め公園化に伴い設置・整備されたもの)。

品川台場132第三台場内部.jpg

⑦第三台場南西側土塁。現状はほぼフラットだが、絵図を見ると往時は土塁の凹んだ箇所に大砲が配備されていたようだ。

品川台場143第三台場南西側土塁.jpg

なお、お台場海浜公園がオリンピック競技会場になることから、準備工事のため台場公園(第三台場)も202131日より利用休止の予定。

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:旅行

片倉城 2021.1.30 [東京都]

近隣の城めぐりの続き。2021年1月30日(土)、八王子駅から一駅先のJR横浜線片倉駅で下車し、片倉城へ。片倉城は、湯殿川と兵衛川に挟まれた丘陵東先端部に位置し、室町時代、扇谷上杉氏に属した長井氏によって築城されたようで、扇谷上杉氏滅亡後に北条氏の支配下で改造された可能性もある。廃城後の姿は江戸時代の諸国古城図に残されている。1972年に八王子市の片倉城址公園として整備され現在に至っている(1999年に都史跡指定)。

①片倉城跡公園マップ(下が北、上が南)。東郭(主郭)は本丸広場、西郭は二の丸広場と表示されている。今回の歩行ルートを表示。

片倉城1021説明.jpg

②彫刻広場から城山北側を撮影。城山の標高はおよそ146m(西郭)、比高40mである。まず、住吉神社へ登って行く。

片倉城105城山方向.jpg

③住吉神社。画面左側の切岸の上が東郭。神社の敷地は江戸時代に空堀を埋めて造成された可能性が大きいとされる(「関東の名城を歩く南関東編」)。では、なぜ地盤の安定している東郭内に社殿を建てなかったのだろうか。

片倉城108住吉神社.jpg

東郭の東側、さらに南側の堀底(遊歩道)を歩く。

④東郭の東側空堀。冬季で下草が刈り取られているようで多少落ち葉が積もっているものの歩きやすい。

片倉城115東郭南東堀.jpg

さらに城跡南側を西へ進むと西郭南側空堀前の土塁上の通路(帯郭)に出て西郭南虎口前の土橋に達する。

⑤西郭南虎口前の土橋。虎口は両側に土塁が張り出した両袖枡形虎口。冬季、下草刈りされた状態なので一望できる。

片倉城123西郭南虎口.jpg

虎口から入るのは後にして、さらに帯郭を西へ進み(これが大手道)、西郭南西隅の出丸前へ。

⑥南西隅の出丸(櫓台)。樹木に覆われてこんもりしているところが出丸跡、その手前に大手虎口があった(古城図)ようだ。

片倉城127西郭西出丸.jpg

引き返して、西郭南虎口から西郭へ入る。

⑦西郭内部(西方向)。台地側の西側に小高い土塁が続いている。

片倉城144西郭内.jpg

⑧西郭北側の出丸(公園名称:休憩広場)。両側は谷にえぐられ北に突出しており、見晴らしが良い。

片倉城145西郭北出丸.jpg

⑨西郭北西隅切岸・空堀。公園化により、つつじ山となっている。

片倉城153西郭西堀.jpg

西郭に戻って、東郭へ。

⑩東郭・西郭間の空堀。幅は20mくらいあるが、かなり土砂で埋まっている。

片倉城113東郭・西郭間堀.jpg

片倉城滞在はおよそ1時間で帰路につく。下草刈りされた冬季の見所は、遺構が良く残っている城跡の東・南側の空堀跡~大手道跡あたりで、見応えがある。


nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:旅行

八王子城 2019.12.28 [東京都]

高尾山の北に位置する八王子城。城の構造は、麓の居館地区と山頂の要害地区に分かれ、さらに外郭ラインの詰城地区、太鼓曲輪地区に広がっている。北条氏照が築城し1587年頃までに滝山城から居城を移し、1590年の豊臣秀吉による小田原北条氏攻略に際し落城、廃城となった。1986年度から始まった八王子市による居館地区の発掘調査により、虎口(出入口)部分からは石垣・石敷・石段等が、御主殿曲輪部分からは建物礎石・庭園跡・遺物等が見つかり、1989年度からは虎口の石垣復元整備、冠木門復元、曳橋設置など整備が進められ、歴史的景観がよみがえった。

八王子城を訪れたのは2019年12月28日(土)のこと。JR高尾駅10時16分着、高尾駅北口のバス乗場から宝生寺団地行き(西東京バス)10時25分発→霊園前・八王子城跡入口10時30分下車。ここから左折(西方向)し20分程度歩くと、ガイダンス施設に着く。ここには復元ジオラマなどが展示されている。さらに西に進み管理棟を過ぎたあたりで城山川を渡り、大手門跡、古道を経て、御主殿曲輪へ入るための曳橋に至る。

①現在の曳橋。曳橋を渡りきったところを右折すると左上に向かって虎口階段がある。

八王子城006曳橋.jpg

②復元整備された虎口階段。両側が石垣で囲まれているのは太田金山城の大手道同様で、安土城の大手道を参考にしたとの説もある。途中の石敷踊場には門跡(礎石4個)があり、門の下は枡形構造となっていた。

八王子城016虎口階段.jpg

③虎口を通り、御主殿曲輪内部へ。御主殿など建物の礎石、庭園遺構などのほか、会所跡は床部分が復元されている。会所床西端より虎口の復元冠木門方向を撮影。

八王子城026御主殿より.jpg

④西端石垣遺構。会所跡からさらに西方向へ林の中の小道を進むと御主殿曲輪の西端を区切る石垣遺構がある。

八王子城022御主殿西石垣.jpg

⑤会所跡に戻ると、御主殿曲輪北西上の四段石垣方向へ向かうボランティアガイドに連れられた一行がいたので合流させてもらい、四段石垣へ(ガイドなしでは立入禁止)。足下には石垣にも使われている硬質砂岩の破片が散らばっており歩きにくい。一段目の石垣群を撮影。これらの石垣群は御主殿曲輪を土石流から守るために築かれたとのガイドさんの説明。

八王子城030一段石垣.jpg

⑥御主殿曲輪に引き返し、ガイドさんの案内で曲輪東端の竪堀へ。竪堀の石垣を撮影。

八王子城043御主殿東竪堀石垣.jpg

⑦山上の要害地区へ。中腹でガイドさんに金子曲輪東側の石垣遺構を案内してもらうが、滑落の危険があるため中止。今年の台風影響で足場がなくなっているようだ。次いで柵門跡東側の石垣遺構を案内してもらい、これは見ることができた。柵門跡東側の石垣を撮影。

八王子城047柵門東石垣.jpg

⑧小宮曲輪下の南東に開けた登山道からの都心方向の眺望。八王子神社を経て城山山頂(深沢山:標高460m)の本丸へ。このあと、下山するガイドさん一行と別れて、南に眺望のきく松木曲輪で昼食。

八王子城052小宮曲輪下眺望.jpg

⑨昼食後、西の詰城へ向かう。本丸下の井戸を経ていったん下り、「馬冷し(こまびやし)」と呼ばれる堀切から登りとなる。馬冷し堀切を撮影。

八王子城060馬冷し堀切.jpg

⑩詰城。山道を登り切ったところが、現在は詰城と呼ばれているところ(標高479m)。頂上部は小さな曲輪となっており、北尾根上に石塁が続いているらしいが、14時前なので深追いはやめて引き返す。

八王子城065詰丸.jpg

下山口は管理棟の後ろだが、今年の台風で橋が崩落しているため迂回臨時通路から管理棟の後ろへ出る。滞在時間4時間、14時42分発のバスで帰路についた。ガイドさんの案内で貴重な石垣遺構を見ることができ感謝します。それにしても毎年強まる台風や集中豪雨で石垣の崩落が危惧される。

nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:旅行

滝山城 2019.12.24 [東京都]

八王子市の北部、多摩川南の丘陵地帯にある滝山城を訪れたのは2019年12月24日(火)のこと。5月にも訪れたが桜の木に大量発生した毛虫に悩まされ、冬場に再訪。JR中央線八王子駅9時56分下車、八王子駅北口の12番バス乗場から10時5分発戸吹行き(西東京バス)→10時22分滝山城址下で下車。道路を横断したところに「戦国の名城 滝山城跡入口」の看板がある(左の交差点近くに滝山観光駐車場にパンフレットあり)。ここから登城路(関係者車両の通行可能)に入り少し急な坂道(天野坂)を登ると左側に小宮曲輪の堀が見えてくる。

①小宮曲輪の切岸と堀。城の南西エリアに広がる小宮曲輪の南東・南西斜面は急斜面に削られて(切岸)、横堀がめぐらされている。堀底を歩こうと思っていたが、関係者以外通行止めの表示あり(環境保護?)。

滝山城0301小宮曲輪南隅.jpg

滝山城は、北条氏照(氏政の弟)が1567年までに築城し拠点としていたが、より堅固な八王子城(石垣造りの城)を築いて1587年頃に移転した後は廃城になったようで、その間の遺構(土造りの城)が残されている。

②登城路右側の三の丸切岸と堀を撮影。滝山城跡は都立滝山公園となっているので、東京都が林床整理を冬場に実施中で樹木が間伐され見通しが良くなっている。こちらも堀底は関係者以外通行禁止の表示あり。

滝山城0302三の丸南西堀.jpg

③登城路から分かれて左折(北方向)し山の神曲輪方向へ遊歩道に沿って行くと小宮曲輪北虎口に至る。北側から小宮曲輪北虎口を撮影。画面中央の土塁上に防御陣地があったとされ、画面左が枡形虎口となっている。画面右に行くと小宮曲輪の横堀につながっている。画面左下の堀に降りて進むと弁天池跡の土手前に出ると思われる。

滝山城0306小宮曲輪北虎口.jpg

④登城路に引き返して、東方向へ千畳敷、二の丸へと進む。二の丸は、西・南・東の3ヶ所に馬出付き虎口を備える防御の要とされる。南馬出(画面左)とそれに続く南虎口前土橋を二の丸側から撮影。

滝山城0316二の丸南土橋・南馬出.jpg

⑤二の丸の周囲をめぐる帯曲輪側から二の丸南東側切岸と堀を撮影。このあたりも間伐されて見通しが良くなっている。

滝山城0321二の丸南東堀.jpg

⑥二の丸東馬出側の土橋から東虎口を撮影。ここは登城路ルートになっている。

滝山城0326二の丸東虎口.jpg

⑦登城路を道なりに進み、中の丸へ。中の丸にはかつて国民宿舎があったそうだ(そのため道路が整備されているが、遺構が損なわれているともいえる)。中の丸から本丸へは現代の木橋を渡る。堀底から撮影した木橋。木橋を渡り東枡形虎口(発掘により石敷遺構が見つかった。)から本丸へ。

滝山城0335本丸・中の丸間木橋.jpg

⑧本丸北端から多摩川方向の眺望。北側は崖になっている。

滝山城0332本丸からの眺望.jpg

⑨本丸南枡形虎口を本丸側から撮影。枯葉の間に石列や礎石が見え、門があったとされるところ。

滝山城0333本丸南虎口.jpg

⑩弁天池跡の中の島。本丸から下の曲輪に下り、さらに藪を進むと弁天池跡に出る。弁天池とは宴を楽しむ池だったとされ、盛り上がった所が中の島。現状、立入禁止となっているが、将来的には遊歩道周回コースに組み込んでほしいと思う(弁天池跡は城跡の中央部にあるので)。

滝山城0337弁天池中の島.jpg

弁天池跡から本丸下に戻り、登城路を戻って下城する。滝山城滞在は約2時間、滝山城址下バス停発12時27分の拝島行きで帰路についた。



nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:旅行

江戸城(2) 2017.3.18 [東京都]

皇居一般参観(主に旧江戸城西の丸)の次は、皇居東御苑(旧江戸城本丸・二の丸・三の丸)に向かう。桔梗壕に沿って東に向かうと三の丸大手門が見えてくる。

①登城ルートを江戸東京博物館にある江戸城復元模型に書き加えてみた。手前から、三の丸、二の丸、本丸。

江戸城0702江戸東京博物館_LI (2).jpg

②三の丸大手門。土橋を渡り高麗門を入り右折して櫓門から三の丸に入る枡形虎口である。櫓門は1945年に戦災で焼失し、1967年に再建された。手荷物検査後、入園票(退城時に返却)をもらい入城する。三の丸には現在、尚蔵館(皇室から国に寄贈された美術品類の展示・調査・研究設備)がある。

江戸城0568大手門.jpg

③大手三之門跡。三の丸と二の丸の間には、かつては壕があり下乗橋を渡り大手三之門を通り二の丸へ入っていた。御三家以外の大名はここで駕籠を降りなければならなかったので下乗橋と呼ばれた。高麗門跡を入ると枡形内に同心番所が残っている。左折して巨大な石垣が残る櫓門跡(城内最大規模)を通る。

江戸城0709大手三之門.jpg

④大手三之門を入ると二の丸に百人番所が残っている。画面中央が大手三之門櫓門跡、右側が百人番所。

江戸城0577百人番所.jpg

⑤本丸中之門跡。櫓門を支えていた巨大な石垣が残っている。門を入ると大番所が残っている。

江戸城0576中之門.jpg

⑥本丸中雀門跡(画面右)。大手筋から本丸へ入る最後の関門。

江戸城0579中雀門.jpg

⑦富士見櫓の後ろ姿。本丸南端にある。

江戸城0584富士見櫓.jpg

⑧富士見多聞。本丸西の土手上にある。内部に入ることができる。

江戸城0585富士見多聞櫓.jpg

⑨天守台の西側。

江戸城0589西側.jpg

売店で皇居東御苑と江戸城の対比イラスト入りクリアファイルを購入。帰りは、汐見坂を下る。

⑩汐見坂から本丸東側の白鳥濠を撮影。このあたりの石垣は打込み接ぎで慶長期のものとされる。

江戸城0592白鳥濠.jpg

梅林坂前→下梅林門跡→平川(平河)門へ。

⑪平川(平河)門枡形内の土塀石狭間。土塀に狭間を開けず土塀接地面の石垣をくり抜いている。

江戸城1036平川門石狭間.jpg

ここで入園票を返却し退城。

なお、2019年7月に本丸を訪れたところ、工事中で一部立ち入れ制限されていた。皇位継承に伴う大嘗祭(2019年11月開催)のため大嘗宮仮設工事とのこと。立ち入り制限区域は時期により異なるので登城の際は確認されたい。


nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:旅行