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二条城(下野) 2023.1.18 [栃木県]

西方城のお隣の二条城は標高143mと西方城よりかなり低いが、見学者用駐車場から沢を渡ってからの登り道は急勾配となっている。案内図(縄張図)を見ると本来の大手道は南東側と思われる。
①沢を渡って登り口。右(北)と左(東)に分かれているが、右を選択してみた。
西方二条城101登り口.jpg
②急勾配を登って行くと主郭北側の曲輪に出る。
西方二条城103北郭.jpg
③南進して主郭東側曲輪(画面左)を経由して主郭(画面右)へ登る。主郭への登り口は北東隅の細い道なので最初見落としてしまった。2021年の発掘調査現地説明会資料の赤色立体地図(栃木市ウェブサイト)を見ると、主郭の本来の虎口はぐるっと回った西側ではないだろうか。
西方二条城104北郭から主郭.jpg
④主郭内部。内部は削平された四角い平面、周囲は土塁で囲まれその内側と外側上部に石積みの遺構が残っている。
西方二条城114主郭内南土塁.jpg
東側から下山してもよかったのだが、慎重を期して登りと同様に北側ルートで下山した。
[メモ]西方町文化財保護ボランティア他編集・発行の西方城パンフレット(栃木市観光協会ウェブサイト)によると、二条城という名は「新城(にいじょう)」が変化したとされる。戦国時代に西方氏によって築かれ、江戸時代初期に藤田信吉が居城として改造したが、1615年または1616年に改易され廃城となった。2019年度から西方城とともに栃木市による発掘調査が行われている。


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西方城 2023.1.18 [栃木県]

戦国時代の工夫された縄張りが見学しやすく維持管理されている栃木市北部(旧西方町)の山城、西方城を訪れる。都内からJRで栗橋駅へ、栗橋駅からは東武日光線で東武金崎駅下車、西方向へ40分ほど歩くと麓の長徳寺前の見学者用駐車場に到着する。
①城山東面全景。城山標高221m、撮影地点は84mなので比高137mと比較的登りやすい高さだが、山中には「イノシシ出没注意」の表示が至る所にある。
西方城102城山全景.jpg
②見学者用駐車場にある案内図(画面右が北)。番号は見所を指しており、この順番に、まず北側斜面の竪堀を登り北の丸へ、北の丸からは尾根を削平した曲輪を南進して本丸へ、本丸からは東の丸方向へ下る周回コースを歩く。
西方城104縄張図.jpg
10分ほど山道を登ると右方向を指す案内板があり、北側斜面を東西に貫く竪堀に入る。
③北側斜面の竪堀を見おろす。落ち葉があまり堆積しておらず登りやすい。
西方城118竪堀.jpg
竪堀を登り切った所は、北の丸突出部切岸と馬出で防御している。
④北の丸北側の馬出。後方が北の丸切岸。
西方城123馬出.jpg
北の丸を南進して枡形虎口へ。
⑤北の丸南枡形虎口。ジグザグ屈曲する通路で、右側が小高い防御陣地となっている。
西方城132北の丸南虎口.jpg
枡形虎口を抜けると土塁と空堀で東西に区切っており、土橋を通り南隣の曲輪(名称なし)へ。
⑥北の丸南隣の曲輪の北虎口と土橋。
西方城136北の丸南虎口.jpg
さらに土塁と空堀で東西に区切った南隣が二の丸。土橋を通って二の丸へ。
⑦二の丸北虎口と土橋。
西方城139二の丸北虎口.jpg
二の丸の南隣が本丸となる。北の丸から本丸までは南北に延びるなだらかな尾根となっているので直線連郭式の構造になっているものと思われる。
⑧本丸北虎口。
西方城143本丸北虎口.jpg
⑨本丸内。石列が露出しており、別の場所でも発掘調査により石列が発見されている。通路の境界線か石築地のようだ。本丸周囲は土塁で囲まれている。
西方城144本丸内.jpg
⑩本丸南虎口。本丸南隣の曲輪から堀底に下りて本丸に上るルートだが、木橋が架かっていたのかもしれない。
西方城147本丸南虎口.jpg
⑪本丸南東下枡形虎口を東側から撮影。本丸南隣の曲輪を南東方向へ下りた所にある枡形虎口。ここから西方向へ行くと西の丸、南方向へ行くと南の丸、東へ下って行くと東の丸となり、防御の要だったと思われる。
西方城153本丸南郭東枡形.jpg
東の丸へ下って行く途中に井戸跡がある。
⑫井戸跡。井戸は埋まっているが、周囲の土塁には石積みの遺構が残っている。
西方城164井戸跡.jpg
⑬さらに下った所にあるのが東の丸西側の枡形虎口。東の丸側が大手筋と考えられている。
西方城168東の丸西馬出.jpg
⑭東の丸を後にして北東側へ下りて行く途中に石組みが2箇所あり、そのうちの1つ。用途はなんだろう。
西方城174石組み.jpg
麓に下りて、隣の二条城へ向かう。
[メモ]西方城は、宇都宮氏の一族の西方氏が宇都宮氏の西の拠点として室町時代に築城したようで、戦国時代には南隣の皆川氏との戦いの最前線となった。1590年の小田原北条氏の関東支配解体後は結城氏支配下となったが、城がどうなったかはわかっていない。結城氏の福井転封後に藤田信吉が入り西方藩が成立したが西方城ではなく東隣の二条城を居城とし、西方城は廃城となったようだ。2019年度から栃木市による発掘調査が行われている。



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坂田城 2023.1.9 [千葉県]

202319日(月)、千葉県横芝光町の九十九里平野に突き出た半島状台地にある坂田城を訪れる。都内から総武本線で横芝駅へ。駅舎は千葉県最古(1897年)とのこと。まず、駅から西方向へ30分ほど歩いて坂田池へ行く。
①坂田池越しの城山南面(城山の標高は32mくらい)。池はマガモの越冬地になっているようだ。
坂田城104坂田池.jpg
池の周囲は公園として整備されており、一周1kmほどの遊歩道は散歩コースとして最適。池は台地と砂州(第1砂堤列)のあいだの低湿地に形成されたもののようで、現在は利根川の水を房総半島へ運ぶ房総導水路の調整池の役割を担っている。
城跡へは南西側の登り口から入る。
②城跡案内図(左が北)。今回のルートをオレンジ色で加えた。南北に細長い半島状台地を東西に空堀と土塁で区切る直線連郭式の典型とされる。南から無城(主郭)→見台(馬出)→登城(二郭)→三郭へ歩くことになる。「無城」は元々「牙城」(くずし字の無と牙は似ている)だったようで主将のいるところ=主郭のこと。
坂田城109案内図2.jpg
③城山南西登り口。
坂田城110登り口.jpg
④主郭西腰曲輪。ここはきれいに整備されている(梅園へのルートのためだろうか?)。
坂田城111西腰郭.jpg
⑤主郭西虎口を内側から撮影。主郭は樹木・藪が生い茂っているが、周囲は土塁で囲まれている。
坂田城112主郭西虎口.jpg
⑥主郭東虎口と土橋を見台(馬出)側から撮影。虎口左右の土塁は藪で分かりにくいが横矢掛りで突き出ている。土橋の左右の空堀は深そうだが樹木・藪が生い茂っている。
坂田城116見台→主郭.jpg
⑦見台(馬出)北虎口と土橋を登城(二郭)側から撮影。登城(二郭)→土橋→画面左側の見台(馬出)→右折して土橋→画面右側の主郭に至るルートとなっている。空堀・土塁に樹木・藪が生い茂って分かりにくいのが残念。梅まつりの頃には下草をきれいにするのかもしれない。
坂田城122登城→見台.jpg
梅園などの畑になっている登城(二郭)を北進する。
⑧登城北虎口を三郭側から撮影。この虎口左右の土塁も藪で分かりにくいが横矢掛りで突き出ている。
坂田城131三郭→登城.jpg
⑨三郭内部は梅園や梨園などの畑になっている。
坂田城138三郭北側.jpg
⑩三郭北虎口を三郭側から撮影。三郭の北側は土塁を中に挟んだ二重空堀となっている。
坂田城139三郭北虎口.jpg
⑪三郭北虎口を城外側から撮影。現在は農道が直線的に中央の土塁を貫いているが、本来の城道は画面左(東側)の堀底に下りて土塁の東側の切れ目を廻って三郭北虎口に上るルートだったとされる(二重枡形虎口)。
坂田城148三郭北外側土塁から.jpg
帰り道は、三郭の東側から下りて横芝駅へ戻り帰路についた。
[メモ]坂田城は戦国時代に上総の国衆の井田氏の拠点として整備された。井田氏は本佐倉城の千葉氏に属していたが、のちに小田原北条氏の指揮下に入り、1590年の北条氏の関東支配解体後は廃城となった。現在は、横芝光町指定史跡となっている。なお、本記事の解説部分は主に現地説明板と峰岸純夫・齋藤慎一編『関東の名城を歩く南関東編』(2011年)によりました。



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