福知山城 2024.2.18 [京都府]
2月18日の午後は福知山城跡を訪れます。福知山駅北口から東進、まず、市役所南の急坂を登って伯耆丸公園へ。
①伯耆丸公園から見る本丸西面。ここは城が築かれた丘陵の西側にあたる伯耆丸跡、あいにく法面崩落対策工事中でしたが、天守西面がよく見えます。
②本丸天守から伯耆丸公園を見るとこんな感じです。本丸と伯耆丸の間には二の丸があったのですが、明治以降に二の丸のあった台地は削り取られました。
伯耆丸公園から下りて本丸跡へ。本来の登城路は二の丸側からでしたが消滅したため、近代にできた本丸東側の坂道を登り本丸南東面下から入り、反時計回りに廻ります。
③本丸東面、釣鐘門下「く」の字に屈曲する階段下の石垣。表面が平坦で比較的大きい石材が使われており、新しい時期のものとされています。
④本丸北東隅石垣。このあたりも表面が平坦で大きい石材が使われており、本丸の中で最も新しい時期のものとされていますが、隅角部は完成された算木積みにはなっていません。
⑤小天守台北面石垣。横長や小さい石材が使われており、古い時期のものとされています。
⑥天守台西面石垣。画面中央の石垣の斜めラインより右側が最も古い時期の石垣とされており、明智光秀に関わる天守台と考えられています。この部分は石塔などからの転用石が最も多く使用されています。斜めラインより左側の張り出し部分はあとで拡張された部分だそうです。
⑦銅(あかがね)門番所。もともとは二の丸へ上がる登城口の銅門の脇にあったもので、1916年に天守台に移築され、天守再建にともない本丸西側に移築されたもの。
⑧天守台東面石垣。東面石垣は明治以降に積み直され、天守再建の際に現在の形に積み直されたもの。天守への入口は石垣の間にありますが、地階の穴蔵はなく土間から一階に上がる構造です。天守台は岩盤上に内部もすべて石材で充填された積石塚の状況とのこと。
⑨天守から見る由良川。東から西への流れが城の東端で湾曲して北(画面左)へ向きを変えています。
天守から降りて釣鐘門から退城します。
⑩「さんの丸」の屋上カフェから見る天守。ちょっと奇抜で非対称な天守の姿は、光秀創建時のものだったのか、あるいは、そのデザインを受け継いで後世の城主が改築したものだったのか。ここでしばし休憩、帰路につきました。
[メモ]福知山城は、由良川左岸の丘陵に明智光秀が1579年頃に築き、有馬豊氏の時期(1600~20年)に近世城郭として完成したようです。明治に入り廃城となり天守など建物は払い下げ撤去されましたが、天守は江戸時代の平面図と絵図をもとに1986年に外観復元・再建されました(2020年に島充さんが発見した古写真によりほぼ正確なものと確認されました)。なお、本記事の解説部分は福知山城天守閣編『新編 福知山城の歴史』などによりました。同書によると、明智光秀に関わる天守台が築かれた後、豊臣秀吉家臣の杉原家次か小野木重次の時期(1583~1600年)に小天守の石垣が築かれ、有馬豊氏の時期に本丸石垣が完成したようです。
周山城 2023.4.10 [京都府]
周山城は明智光秀が丹波国の東端、現在の京都市右京区の京北地域に築いた山城で、四方に伸びる尾根筋に曲輪群が築かれている。大きくは土造りの西城と石垣造りの東城に分かれており、今回は、石垣造りの東城を訪れる。
京都駅前11時発のJR西日本バス周山行きに乗り、周山城跡に向かう。このバス路線の途中には立命館大学・龍安寺・仁和寺などがあり車内混雑(このため定刻より10分ほど遅れる)していたが、周山街道に入ると閑散となった。12時30分頃、京北合同庁舎前バス停で降りて、隣接する道の駅ウッディ京北で「周山城址を守る会」のパンフレットをいただく。その案内ルートにしたがって登城。ウッディ京北は標高245m、周山城主郭の標高480mなので高低差235mあるが、京都一周トレイル京北コースでもあり、北東尾根の曲輪(標高350m)の手前付近から視界が開けてくるので気分的にも登りやすい。
①南東尾根の曲輪(鍛冶屋)の手前を過ぎたあたり(「本丸まで500m」)で眺望が開けてきて、周山街道(京都と若狭を結ぶ)を見おろすことができる。
②東尾根の南斜面の山道を登り、右折して東尾根の曲輪(兵糧蔵)虎口へ。虎口の両脇には石垣遺構が残っている。曲輪の南斜面や虎口下にも石垣遺構が見えるので、曲輪の周囲に石垣が築かれていたと思われる。
③さらに、尾根の南斜面の山道を登り、右折して主郭東隣の曲輪(二の丸)南虎口へ。こちらも虎口の両脇や郭南斜面に石垣遺構が残っており、曲輪の周囲に石垣が築かれていたと思われる。
④主郭東隣の曲輪(二の丸)から主郭(本丸)への通路の両脇には石塁遺構が残っている。
⑤石塁通路を登って主郭東虎口に入る。枡形虎口だったとされ、石列遺構もL字形に残っている。
⑥主郭のまん中に天守台と考えられている遺構が残っている。中央部が凹んでいる穴蔵構造で、入口(開口部)は三箇所ある。
⑦主郭北側の虎口(搦手口)から主郭西側へ下って行く。主郭西面には三段の石垣が築かれているとされるが、中央に見えるのが二段目の石垣と思われる。手前の石垣は虎口の石垣と思われる。
⑧「壮大な石垣①」の案内に導かれて西斜面へ進むと、残存状態の良い主郭西面最下段の石垣が見えてくる。
⑨戻ってさらに西尾根方向の曲輪(小姓曲輪)へ進み、「壮大な石垣②」の案内に導かれて行くと残存状態の良い西尾根北面石垣が見えてくる。
⑩隅角部の算木積みは初期段階のようで、野面積みの石材の隙間も大きい。
さらに西へ進むと西城に至るが、ここで引き返して下山、15時頃にウッディ京北に戻る。4月上旬の晴天ということもあるが、思っていたより山道が整備されていて快適な山城歩きでした。
[メモ]周山城は、天正9年(1581年)には存在した記録が残っており、山崎の合戦による明智氏滅亡(1582年)後、しばらくして廃城となったようだ。2017年に京都市による航空レーザー測量と現地踏査が行われ、山城の全貌が明らかになりつつある(『京都市内遺跡詳細分布調査報告平成29年度』による)。