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深大寺城 2023.12.27 [東京都]

調布市の深大寺城跡を1227日に訪れました。深大寺城は、南は国分寺崖線、北と東は逆川により浸食されてできた谷に挟まれた台地上に位置する戦国時代の城跡で、2007年に国史跡に指定されました。現在は都立神代植物公園の水生植物園の園内に組み込まれています(フェンスで囲まれているため営業時間外は見学できません)。三鷹駅南口からバスに乗り深大寺小学校バス停で下車、そば処多聞の横が水生植物園の入口です。
水生植物園(逆川の流路・湿地)から城跡東面を撮影。高低差は13mほど(台地標高50m、低地標高37m)。
深大寺城1103水生植物園.jpg
遊歩道の南端から台地上へ登って腰曲輪へ。
東側の腰曲輪。ここから西へ進んで第1郭へ。
深大寺城1104腰曲輪.jpg
1郭。周囲は土塁で囲まれています。樹木が生い茂っており見晴しは利きません。
深大寺城1105第1郭.jpg
1郭北虎口。平虎口ですが、その脇の北西隅(樹木の茂っている高台)には櫓台がありました。郭は空堀と土塁で囲まれています。
深大寺城1109第1郭北虎口.jpg
北虎口から出たところが第2郭。第2郭は過去にテニスコート設置のため整地されましたが、その後、土塁が復元され、芝生公園となっています。
第2郭南土塁。なかほどに平虎口があり、その前面(現在は、民家)に馬出状の平坦面があります。
深大寺城1112第2郭南土塁.jpg
第2郭西側の空堀・土塁。第2郭とその西側の第3郭(現在は、テニスコートや民家)の間にある空堀・土塁で復元されたもの。本来、堀はもっと深かったようです。
深大寺城1115第2郭西土塁.jpg
第2郭北西空堀跡を見学するため、水生植物園から出て西側のテニススクール入口の道(=空堀跡)を上って行きます。
第2郭北西空堀跡。自然地形を利用したものかもしれませんが、急峻なクランク状の崖になっており、見応えがあります。
深大寺城1119第2郭北西空堀.jpg
このあと、お寺(深大寺)に寄って帰ります。
[メモ]峰岸純夫・齋藤慎一編『関東の名城を歩く南関東編』によると、文献史料と発掘調査から深大寺城は、扇谷上杉氏の城として1490年頃に「つなぎの城」(武蔵と相模の中継基地)として存在し、その後いったん廃城となり、小田原北条氏の進出を受けて1537年に再興したが、本城の川越城陥落により最終的に廃城となったようです。したがって、現在残る表面遺構は、1537年段階のものだそうです。



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加納城 2023.12.4 [岐阜県]

加納城は、長良川扇状地の南東末端に位置し、関ヶ原戦後に徳川家康の指示で1602年から天下普請として戦国時代の城館跡に築かれた平城です。岐阜公園歴史博物館前から岐阜バスで20分ほど南下し城南通りバス停で下車、東方向へしばらく進むと、加納公園の一部になっている加納城本丸西堀跡に到着します。本丸西面に近寄ってみると石垣は下半分以下で上部は土塁の状態(腰巻石垣?)、築城当初からだったのか、それとも上部の石垣が失われたのだろうか。
本丸北西隅。巨石による荒削りの算木積みですが、下部だけなのは不自然。かつては上部にも石垣があったのでは?この北西隅は天守台と呼ばれていますが、天守は建てられませんでした。
加納城119北西隅.jpg
本丸の周囲を反時計回りに廻って行きます。
本丸南西隅。こちらはやや小振りの石による算木積みで色合いも異なっていますが、加納城の石材はほぼ全てチャートとのこと。
加納城101南西隅.jpg
本丸南面にはかつては南側の大藪曲輪から木橋を渡って入る内枡形虎口がありましたが完全に消滅し、近代にできた入口となっています。
本丸南東隅。このあたりから石垣が最上部近くまで残っています。
加納城107南東隅.jpg
本丸東外枡形南東隅。加納城最大の見所、本丸の東に突き出る巨大な外枡形虎口。枡形空間も広いのですが、その南側・東側の土塁上に「武者溜り」という土塀に囲まれた曲輪が設けられていました。これは大変珍しいのでは。
加納城109外枡形南東隅.jpg
本丸東外枡形北東隅。石垣が一部崩落して失われているようです。
加納城111外枡形北東隅.jpg
本丸東外枡形入口。現在は入口が閉鎖されていますが、本来は大手口で北東側の二の丸から木橋を渡り、高麗門を入って右折して櫓門を通る構造でした。周囲の堀跡からは障子堀跡が確認されました。
加納城112外枡形北面.jpg
あとで本丸北入口から入って枡形内側から見てみます。右側が高麗門跡、中央が櫓門跡ですが、石垣は失われています(発掘調査により礎石や石垣の基礎部分は確認されました)。
加納城125外枡形内側.jpg
本丸北東隅。石垣の残存状態は最も良さそうです。
加納城115北東隅.jpg
本丸北面。北面の石垣は途中から三分の一ほどになっています。こうして見ると本丸西側の石垣が低くなっているようです。
加納城121北面西側.jpg
本丸北側の近代にできた入口(埋門はあったようです)から本丸内に入ります。
本丸内側には石垣は見当たりません。子どもたちの遊び場になっているようです。
加納城126西側土塁内側.jpg
次に、加納小学校と岐阜地方気象台のあいだにある二の丸北石垣を見に行きます。
二の丸北石垣。思っていたより長い石垣が残っています。この左端(北東隅)に岐阜城の天守を移築したと伝わる三階櫓が建っていました。
加納城128二の丸北面.jpg
[メモ]加納城跡は、岐阜城跡より早く1983年に国史跡に指定され、1988年度から岐阜市により発掘調査が行われました。発掘成果の概要は『加納城跡の発掘』(2010年岐阜市Web版)で知ることができました。また、『加納城下町地図』というパンフレットが信長居館発掘調査案内所にあり参考になります。



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岐阜城 2023.12.4 [岐阜県]

岐阜市の岐阜城跡と加納城跡を124日に訪れました。JR岐阜駅北口から岐阜バスに乗り岐阜公園歴史博物館前で下車し、岐阜城跡へ。城は金華山の山上部と山麓部から構成されています。
金華山西面。標高はおよそ330m、全山チャートからできています。
岐阜城147金華山.jpg
1時間程度で歩いて登山できるようですが、ロープウェーで登ることに。その前に信長居館発掘調査案内所に行き、パンフレット・解説シートを入手。最近の山上発掘調査解説シートや香川元太郎さんの描くイラストのクリアファイルなどがあり非常に充実しています(居館の復元イメージ模型もあります)。
ロープウェーは15分間隔で運行されており、4分ほどで頂上に着きます。北西方向に歩き一ノ門跡へ。
一ノ門跡。左崖と右岩盤・石垣の間に櫓門があったようです。
岐阜城102一ノ門跡.jpg
馬場跡と伝わる通路をさらに進むと二ノ門跡へ。
二ノ門跡。坂を登って右折する枡形虎口のようです。門を入ったところの平地が下台所跡(江戸時代の絵図での名称)。
岐阜城108二ノ門跡.jpg
さらに坂を登って行くと、台所跡と伝わる平地がありますが、旧気象台無線中継所などの公益施設があり立入できません(三角点があるのもこちらです)。北西方向の天守への尾根道を進みます。
天守と天守への尾根道。現在の天守は1956年に建設されたもの。天守台石垣の大半は明治時代に積み直されたものですが、ごく一部に16世紀末の姿が残っているようです。
岐阜城109天守への通路.jpg
天守台南西隅下段石垣(織田信長城主時期の可能性が高いと考えられるもの)
岐阜城111天守台南西隅.jpg
天守台南東隅上り口東側石垣(池田輝政城主時期と考えられるもの)
岐阜城113天守台南入口.jpg
井戸跡から見上げた天守への尾根道東側石垣(織田信長城主時期以降)
岐阜城123天守への通路東面.jpg
1時間ほど山上を見てまわり、ロープウェーで下山、山麓の居館跡へ。居館跡は2007年から岐阜市が発掘調査を行い、入口周辺は復元整備されています。
館跡入口。大きな枡形虎口で巨石列が配置されています。このうち信長時期の姿を残していたのは14石で残りは復元整備されたものです。
岐阜城131館入口.jpg
館跡中心部。中腹の崖上平坦地は、過去の公園造成のため遺構はほとんど確認されていませんが、瓦や鉄釘が出土しており館の中心建物があったと考えられています。縁辺部では池泉遺構が確認されています。
岐阜城135館跡.jpg
館跡中心部の奥。奥には立入できませんが、三段の平坦地となっており、建物跡や池泉遺構が確認されています。
岐阜城141館奥.jpg
館跡遺構は現在埋め戻されていますが、将来的には盛土の上に庭園などが再現されるかもしれません。山麓居館跡を30分ほど見てまわり、次の目的地:加納城跡に向けて岐阜バスに乗り込みました。
[メモ]岐阜城は、戦国時代、斎藤道三の城主時期(15391554)に本格的に整備されたと考えられており、1567年に織田信長が奪取し居城として改造、その後、織豊系の城主が続きましたが、1600年の関ヶ原前哨戦で落城し、廃城となりました。国史跡に指定されたのは山麓居館発掘調査後の2011年です。



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