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横須賀城 2022.12.1 [静岡県]

寒気が流れ込む2022121日(木)、玉石積み石垣で有名な横須賀城を訪れる。都内から新幹線で掛川駅へ、東海道本線に乗換え袋井駅へ。駅南口から秋葉バスで20分ほどの七軒町バス停で下りる。バス停の東方向が南外堀跡となる。
①西大手門跡と南外堀跡。画面左手の生垣付近が西大手門跡、その右隣は西櫓跡、芝生部分は南外堀跡。現在の道路(県道)はかつての土手、その外側は内海(潟湖)だったが、1707年の宝永地震で干上がったようだ(掛川市ウェブサイト「横須賀城下町をブラタモリ的に歩く」に宝永地震前の地図が掲載されている)。
横須賀城101南外堀.jpg
しばらく東方向へ歩き、左折して小道に入り東進すると西の丸南面、そして本丸南面が見えてくる。
本丸南面下の広場に城跡の詳しい案内が掲示されている。
②本丸南面石垣。下から見上げる。
横須賀城143本丸南面.jpg
上から見おろす。
横須賀城152西の丸から南面.jpg
石垣は三段構造となっている。一段目は南側に突き出た本丸と西の丸の台地のあいだを埋めるように築かれており、二段目・三段目は一段目の石垣で築かれた曲輪から本丸・西の丸へ登る斜面に築かれている。廃城後、大半が失われていた「玉石積み」石垣は、発掘調査に基づき19941996年度に復元整備工事が行われ現在の姿になっている。
本丸へ登るのは後にして三日月池へ。
③三日月池(堀)。本丸南東斜面の崖下にあり、初期の内堀の残存と考えられている。
横須賀城111三日月池.jpg
さらに東進し、東大手門跡(標柱のみ)を経て三の丸跡へ。
④三の丸跡。本丸・北の丸の東側にあり、戦後の高度成長期に工場用地となっていたが2004年に公有地化され、2021年に発掘調査が行われた。画面手前左付近が太鼓櫓跡、右の舗装路面付近が東外堀跡、正面の山が松尾山(標高26m)、右奥の山が敵さい山(標高33m)。
横須賀城112三の丸.jpg
三の丸跡から北の丸へ。
⑤北の丸からの本丸北東面。山裾を急傾斜に削った切岸、高低差は最大9mほど(本丸標高23m、北の丸標高14m)ある。
横須賀城116北の丸から本丸.jpg
⑥松尾山。城の北東隅にあり築城当初の拠点と考えられている。
横須賀城119松尾山.jpg
山頂部の池と多聞櫓台跡。多聞櫓台跡から北東隅の崖を見おろすと敵さい山との間の堀切跡(空堀跡)を見ることができる。
横須賀城121松尾山山頂.jpg
いよいよ本丸に登り、北側の天守台跡へ。
⑦本丸天守台跡。発掘調査に基づき、土塁、礎石、石垣が復元されている。土塁に建物の一部が載る構造と想定(服部英雄「史跡における建物復原の問題点」1994年)される。2020年に発見された古図面には層塔型の四層(四階)+土塁接続階の五階建て天守が描かれている(本丸南面下の広場に掲示)。
横須賀城134天守台.jpg
本丸から西の丸へ入り、西の丸西側の出入口から降りる。
⑧西の丸西虎口。西の丸から中段の曲輪で折れて下の曲輪に降りる構造となっている。
横須賀城155西の丸西虎口.jpg
米蔵跡のたたき製防火水槽を見たあと、さらに西に進み、二の丸跡へ。
⑨二の丸と北外堀跡。二の丸跡の北側に北外堀跡が残されている。
横須賀城162北外堀跡.jpg
城跡の北西側にある撰要寺山門を見に行く。
⑩撰要寺山門(掛川市文化財)。撰要寺は横須賀城を築城した大須賀康高の創建によるもので歴代城主の庇護を受けた。この山門は、廃城時に城の北西隅にあった不開門(あかずのもん)を移築したもの。
横須賀城166撰要寺山門.jpg
1時間ほどで城跡をほぼ一周、バスで袋井駅に戻り次の目的地:油山寺をめざす。
[メモ]横須賀城は、1578年に高天神城奪還のため徳川家康が家臣の大須賀康高に築城させたのが始まりで、その後、遠江南部の拠点として拡張整備されました。明治維新後は廃城となり土地・建物等は民間に払い下げられましたが、1981年に遺跡保存のため城跡一帯が国史跡に指定され、現在ではご覧の通り美しく整備されています。本記事の解説内容は、おもに現地の説明板によりました。掛川市「令和3年度史跡横須賀城跡三の丸確認調査報告会資料(R4.1.21)」を利用して今回の歩行ルート(オレンジ色)を表示します。
横須賀城歩行ルート2.jpg



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