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広島城 2020.9.21 [広島県]

太田川河口の三角州上に毛利輝元が1589年から築城を開始(1591年入城)、関ヶ原の戦い後、福島正則、浅野氏が城主となった広島城。帰省先の岡山から広島城を訪れたのは2020921日(月)のこと。山陽新幹線で広島駅着113分着、南口バス9番乗場から広島駅発1112分→合同庁舎前着1115分、ここから西に少し歩くと二の丸太鼓櫓が見えてくる。現在残る遺構は内堀に囲まれた本丸・二の丸で、その形状は聚楽第タイプ(方形の主郭+大馬出を配置)の典型といわれる。かつてはその周囲に中堀に囲まれた三の丸、外堀と河川に囲まれた外郭が廻らされていた。

①二の丸南東隅の太鼓櫓(1994年木造復元)。

広島城1201太鼓櫓.jpg

②本丸裏御門跡。堀端を北に進み本丸東側虎口の裏御門跡から入城。枡形内で左にずれる喰違型の外枡形虎口である。

広島城1204裏御門.jpg

③本丸上段北東隅。本丸のうち御殿のあった北側は一段高くなっており上段とよばれ、上段北面と西面の一部には石垣が残っている。北東隅の石垣崩し跡は福島正則が幕府への無断修築のお詫びとして石垣を破却した痕跡とされる。

広島城1207本丸上段北東隅.jpg

④本丸東小天守台石垣北東隅。隅角部は算木積みの箇所もあるが規則正しくはなっておらず毛利氏時代のものとされる。本丸上段北面石垣北側を西に進むと、東小天守台石垣、大天守台との渡櫓台石垣まで進むことができるが、大天守台石垣下へは立入禁止となっており、残念ながら大天守台石垣の北東隅・北西隅・南西隅は観察できない。

広島城1209東小天守北東隅石垣 (2).jpg

⑤東小天守台から天守閣東面を撮影。本丸上段北面石垣の上を西に進み、一段高くなったところが東小天守台で、大天守とは渡櫓で連結されていた。渡櫓は原爆投下まで残存しており、石垣下の東廊下玄関から内階段を上り渡櫓へ、渡櫓の2階から大天守1階へ通じていた。

広島城1214東小天守台から天守(2).jpg

⑥天守台石垣南東隅。隅角部は算木積みの箇所もあるが規則正しくはなっておらず毛利氏時代のものとされる。

広島城1215天守南東隅 (2).jpg

⑦南小天守台から天守閣南面を撮影。毛利氏創建の天守群は、明治維新後に東と南の小天守は撤去され、残っていた大天守は194586日の原爆投下で失われた。現在の天守閣は1958年に鉄筋コンクリートで外観復元され、歴史博物館となっている。なお、広島市では耐震補強が必要との耐震診断結果を公表(20205月)しており、いずれ補強工事等による長期休館が予想される。

広島城1219南小天守台から天守.jpg

天守閣に上った後、本丸を南へ進み、中御門跡から二の丸へ。

⑧樹木が生い茂った本丸中御門跡を本丸側から撮影。二の丸側からは土橋を渡り右折する内枡形虎口。櫓門は原爆投下まで残存していた(古写真はあるようだが未見)。

広島城1235中御門跡 (2).jpg

⑨本丸南東隅から二の丸を撮影。方形の本丸の南虎口前に馬出形式の二の丸が配置されている。明治維新後も残っていた二の丸の建物群は原爆投下で失われたが、発掘調査や古写真・図面に基づき、1991年に表御門・御門橋、1994年に平櫓・多聞櫓・太鼓櫓が木造復元された(内部公開されている)。

広島城1234本丸より二の丸.jpg

⑩二の丸西側虎口の二の丸表御門・御門橋。ここから退城。

広島城1240表御門.jpg

⑪本丸西側の景観。手前の本丸南西隅の石垣はきれいな算木積みとなっており、浅野氏時代の修築とされる。

広島城1242天守.jpg

広島城滞在は1時間程度、バスで合同庁舎前1242分発→広島駅1247分着、広島駅133分発こだま850号で次の目的地、三原城へ向かう。昼食は、たこめし。

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