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大洲城 2012.5.2 [愛媛県]

201252日、宇和島からJR予讃線で大洲へ向かう。大洲城は肱(ひじ)川の中流域南側の丘陵に14世紀に宇都宮豊房が築城、1585年、四国の豊臣政権支配下入り後に配置された戸田勝隆(15871594)、藤堂高虎(15951609)、脇坂安治(160917)、加藤貞泰(161723)の城主時代に近世城郭へ改造された。明治維新後、天守は1888年に解体されたが、本丸と二の丸の一部が城山公園となり櫓4棟が保存され重要文化財に指定されている。2004年に天守が復元され往時の景観がよみがえった。

JR予讃線車窓から本丸北西側を撮影。手前が肱川。画面左から台所櫓、天守、高欄櫓が多聞櫓で連結されている。

大洲城103予讃線より.jpg

伊予大洲駅から歩いて約20分、南方向へ進み肱川橋を渡ると大洲城二の丸跡に着く。肱川南側の街並みは旧城下町の雰囲気が漂う。

②二の丸から本丸南側を撮影。画面右側は下台所(県指定文化財)。土蔵風の造りをした一部二階建ての高床構造の建物で、城内における食糧庫の役割を果たしていたとされる。明治以降は、監獄・製糸工場・酒造工場の倉庫などに使用されていたとのこと。

大洲城110下台所より.jpg

城山を登り本丸へ。

③本丸南西側。手前が高欄櫓、安政4年地震で大破したものを1861年に再建したもの。石垣は打込み接ぎ乱積み、隅角部は算木積みとなっているようで17世紀以降のものと思われる。

大洲城122高欄櫓と天守.jpg

④本丸南東側。画面右が台所櫓、安政4年地震で大破したものを1859年に再建したもの。内部へは台所櫓から入り天守、高欄櫓まで見学できる。往時は、本丸は多聞櫓で囲まれていた。

大洲城114本丸.jpg

城山から下りて街中を南に歩き三の丸南隅櫓(1925年に造られた旧加藤家住宅主屋のある「お殿様公園」内)へ。

⑤三の丸南隅櫓。火災で焼失後1766年に再建されたもの。画面下のグランドはかつての外堀跡。

大洲城125三の丸南隅櫓より.jpg

このあと、堤防下を通り抜けて肱川沿いの苧綿(おわた)櫓へ。

⑥二の丸苧綿櫓。大破したものを1843年に再建したもの。

大洲城127苧綿櫓.jpg

現在の天守は、古写真・古絵図・天守雛形(木組模型)などに基づき伝統工法で復元されたものだが、1888年まで残っていた天守はいつ頃できたものだろうか。層塔型天守という外観から、藤堂高虎か脇坂安治の城主時代と考えられる。復元天守の基本設計を行った宮上茂隆氏は、脇坂安治が天守を洲本城から移築したのではないかと推定、あわせて、それまでの大津という地名を大洲に変更したとされる。なお、本記事の解説は、おもに大洲城ウェブサイト及び大洲市ウェブサイトによりました。

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