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松代城 2021.10.2 [長野県]

10月とはいえまだ暑い日が続きますが、緊急事態宣言が解除されたので、2021102日(土)、真田氏にゆかりの松代城と上田城を訪れることに。まず、松代城へ。北陸新幹線で長野駅に到着、長野市観光情報センターで散策マップを入手、善光寺口から松代行き路線バス(アルピコ交通)で松代駅へ(通常30分程度、渋滞時は40分以上)。松代駅バス停は2012年に廃線となった長野電鉄屋代線の駅舎前にある。ここから一般的なルートではないが、線路跡地の駐車場を横断し、松代城石場門跡へ。

松代城は、川中島合戦に際し1560年に武田側の前進基地として千曲川右岸の自然堤防上に築かれた海津城がはじまりとされ、1582年の武田氏滅亡後、森長可、上杉景勝の支配を経て、城主となった田丸直昌(15981600年)、森忠政(16001603年)の頃に本丸周囲の石垣が構築されたとされる。その後、松平忠輝・忠昌、酒井忠勝を経て1622年に真田信之が城主となり明治維新まで真田氏の居城となった。明治維新後、建物は取壊しや火災で失われ、払い下げられた城地は土塁や堀も整地され桑畑となったが、のちに本丸跡地は真田家が取得し公園として保全された。1981年に国指定史跡となって以降、長野市による発掘・資料調査を経て19952004年に石垣修復、太鼓門・北不明門の復元、堀・木橋・土塁の復元が行われ、現在の姿となった。

①城内に掲示されている幕末頃の想像図(画面下が北)。黄線で現在の長野電鉄屋代線跡を加えたが、2箇所の丸馬出・三日月堀は廃線跡に重なっている。これらの丸馬出・三日月堀は武田氏時代に起源を持つものなのだろうか。

松代城117全体説明板 (2).jpg

②石場門跡。二の丸東虎口で、前面に丸馬出・三日月堀があった。第2期整備構想で櫓門と丸馬出を復元の予定。画面左側は廃線跡で復元土塁が途切れているが、こちらも第2期整備構想で復元の予定。

松代城104石場門跡.jpg

二の丸を北方向に進み本丸の北側へ。

③本丸北東隅石垣。石垣は主に野面積みで隅角部は大きめの石を用いた算木積みとなっており初期に築かれたものと思われる。信之時代の平面図によると石垣上に綿蔵があったが、その後の絵図には何も描かれていない。

松代城114本丸北東隅 (2).jpg

さらに北側へ進む。

④百間堀跡(画面右)。かつての千曲川はこのあたりを流れていたが、1742年に城内が洪水被害を受けたため、西側に川筋を付け替え、旧河道の一部を百間堀とした。

松代城119百間堀.jpg

本丸北側に戻り、西側の二の丸へ通じる埋門へ。

⑤土塁と埋門。本丸北西隅から二の丸北側を囲う土塁と埋門が絵図に基づき景観復元された。

松代城123埋門 (2).jpg

⑥本丸北西隅石垣(戌亥櫓台)。城内最高所で当初は天守があった可能性もありそうだが、江戸時代の絵図には二階櫓(信之時代の平面図によると行桁4間、梁間2間)が描かれている。石垣は野面積みで隅角部は大きめの石を用いた算木積みとなっており初期に築かれたものとされる。

松代城127戌亥櫓台 (2).jpg

北不明(あかず)門から本丸へ入る。

⑦本丸北不明門。本丸北の枡形虎口で、石垣は打込み接ぎ、高麗門と櫓門のセット(横から入り枡形内で右折)となっており、松平忠輝以降の時代に改造されたものと思われる。建物は発掘調査と江戸時代の絵図面に基づき復元された。屋根は栩(とち)葺きでサワラ材を重ねて葺いているとのことでたいへん珍しい。善光寺三門に習ったのだろうか。

松代城137北不明門枡形.jpg

⑧本丸西内側石垣。このあたりは野面積み。本丸内には本丸御殿があったが、1717年の火災による焼失後、その機能は城域南西側の花の丸御殿に移された。

松代城151本丸西内側.jpg

本丸を南方向へ進み太鼓門から出る。

⑨本丸太鼓門。本丸南の枡形虎口で、石垣は打込み接ぎ、高麗門と櫓門のセット(正面から入り枡形内で右に寄り直進)となっており、松平忠輝以降の時代に改造されたものと思われる。建物は北不明門同様に復元されたもの。門前の橋も発掘調査と絵図面に基づき復元されたもの。

松代城163太鼓門.jpg

二の丸南門跡を通り丸馬出跡へ。

⑩南門前の丸馬出と三日月堀跡。このカーブしている道は南門前の丸馬出へ向かう西側の通路にあたり、馬出と三日月堀跡はこの右側で現状は廃線跡地の駐車場等になっており、第2期整備構想で復元される予定。

松代城174三日月堀跡.jpg

このあと南方向に「歴史的道すじ」を3分ほど進み文武学校へ。

⑪正面に松代藩文武学校、左に真田勘解由家、右に旧白井家表門(移築)を南側から撮影。

松代城178文武学校前.jpg

文武学校は松代藩士の子弟が学ぶ藩校として1855年に開校、明治維新後も学校として利用され、各種武道場・文学所等ほぼ全ての建物が現存(国史跡)しており、見応えがある。文武学校を出て東方向へ進み、旧樋口家住宅を通過し、左折して新御殿へ。

⑫新御殿(真田邸)内部。画面左が庭園。

新御殿107縁側廊下.jpg

新御殿は幕末の参勤交代制度緩和にともない妻子の帰国が許されたことから、藩主幸教が義母貞松院のために1864年に建てたもので、のちに幸教の隠居所となり、明治以降は真田家の私邸となった。現在は松代城跡とセットで国史跡に指定されている。このあと、真田宝物館に立ち寄るつもりだった(共通チケット)が、時間がなくなり断念しバス停に急ぐ。正味滞在時間90分では短すぎた。なお、本記事の解説内容は、各種パンフレット、現地説明板、長野市ウェブサイトなどによりました。

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