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守谷城 2023.5.2 [茨城県]

快晴の5月2日、つくばエクスプレス沿線の守谷城を訪れる。つくばエクスプレス守谷駅から20分ほど東方向へ歩くと城址公園南入口に到着する。
①城山西側の湿地。往時は水を湛えていたと思われる。画面右の森林は御馬家台(おうまやだい)曲輪。
守谷城103御馬家台前の湿地.jpg
②東進し御馬家台曲輪と二の曲輪のあいだを南北に貫く空堀に南側から入る。空堀入口付近の上に木橋が架かっていたとされる。
守谷城108二の曲輪西空堀.jpg
S字カーブを描く最大比高12m、総延長120mのV字形の薬研堀は最大の見所。
守谷城111二の曲輪西空堀.jpg
④御馬家台曲輪に登って南西隅の枡形虎口へ。西側の馬出曲輪から木橋を渡ってこの枡形虎口に入っていたとされる。
守谷城116御馬家台枡形虎口.jpg
⑤空堀に戻って北側に通り抜けて東進し、二の曲輪北の坂枡形虎口へ。
守谷城120二の曲輪北虎口.jpg
⑥二の曲輪に入って西端の土塁伝いに南西隅の枡形虎口へ。御馬家台曲輪から木橋を渡ってこの枡形虎口に入ったとされる。二の曲輪より一段低いので防御しやすくなっていた。
守谷城126二の曲輪南枡形虎口.jpg
⑦二の曲輪を東進し、土橋を通って楯(たて)形曲輪へ。
守谷城129楯形曲輪への土橋.jpg
下から見上げた二の曲輪と楯形曲輪とのあいだの空堀(南側)。正面が土橋。
守谷城140二の曲輪東空堀南.jpg
⑧細長い楯形曲輪。楯の形に見えるだろうか。
守谷城134楯形曲輪.jpg
⑨楯形曲輪と本曲輪のあいだの空堀はU字形で障子堀だったと伝わる。この上に引橋が架かっていたとされる。なお、本曲輪は昭和40年代に沼地干拓・耕地整理で土取されたため約6m低くなっており旧状はとどめていない。
守谷城138本曲輪西空堀.jpg
⑩本曲輪を迂回して東端の妙見曲輪へ。ここには妙見菩薩をまつっていた。
守谷城143妙見曲輪南.jpg
散策路が適度に整備されており、過度な遺構の復元ではなく自然環境と調和した史跡保全となっていることを実感した。
[メモ]守谷城は、茨城県守谷市の小貝川右岸の低湿地に突き出した舌状台地(標高20mくらい)に築かれた直線連郭式の城山地区と現在の守谷小学校付近一帯の城内地区に拡がっていた。千葉常胤の次男相馬師常を祖とする下総相馬氏が鎌倉時代あるいは室町時代に築いて居城としていたが、1567年の小田原北条氏との和睦条件により守谷城を足利義氏へ進上したことにより、北条氏による増改築工事が行われた。しかし、実際には義氏の入城はなく、北条氏の下に相馬氏が支配を続けた。1590年の徳川家康関東移封後は徳川家臣の菅沼(のち本姓に戻り土岐)定政が城主となり守谷藩が成立したが、途中、天領代官支配・他藩支配もあり、最終的に1682年以降は関宿藩領となり廃城となった。その後、城内地区は市街地化したが、城山地区の主要部分は古城として保存され守谷市指定史跡となっている。2020年には環境整理され説明板・案内板等が設置されて散策しやすくなっている。なお、本記事の解説内容は、現地説明板及び守谷中央図書館ウェブサイトの川嶋建・石井國弘『守谷城と下総相馬氏』(2022年)によりました。



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